コミュニケーション力とは何なのか?
面白い話ができることなのか?
語彙力が豊富なことなのか?
語学力が高いことなのか?
私は、「異なる考えの人に自分の考えを伝える、相手の考えを聞くことができる力」のことだと思う。
その手段として、ジョークや語彙力や語学は必要だが、本質ではない。
そして「伝える」「聞くこと」の先には、「理解する」ことがある。
「考え」というざっくりな表現をしたが、これには意見・嗜好・価値観など多くの意味を含む。
当たり前のように感じるが、その重要性に気付いていない日本社会が今もある。
例えば、
コロナがまん延する中で飲食店は休業すべきか。
少年の実名報道はありか。
早期リタイアはありか。
犬食はありか。
動物園は必要か。
甘いものは本当に美味しいのか?
など、意見の分かれるもの、意見が分かれてよいテーマは無数に存在する。
多様性が良いとされるようになってきた(と感じるだけ?)今の世の中においては、「色々な意見があって良いんじゃない」という考えの人も増えてきただろう。
「そういう考えもあって良いよね」と。
しかし、気づいてほしいことは「そういう考えもあって良いよね」という思いの裏には、「自分には関係ない」という意識が働いていることが多いということだ。
「そういう考えもあって良いよね」という言葉で“片づけ”てしまっていると言うべきか。
これは、多様な考えを認めているようで、自分とは違う考えを無視しているだけなのではないか。
日本は、多様性が認められる、多様性が求められる社会になってきたように感じる。
実際にはそうなっていないと感じることが多いのは、こういった、考えの違いを他人事に感じることが根底にあるのではないか。
そして、そこに気づけていないから根本解決がなされないのではないか。
異なる意見は譲れないこともある。
価値観になれば、なおさらのことである。
それは育ってきた環境・文化が関係するものだったり、今支えているものの違いだったりもするので、全てを同意にもっていくことは難しいだろう。
むしろ、同じ考えである必要はない。
だが、違う考えを理解する、認めるということは必要になる。
グローバル化が当たり前になり、多くの国籍の人が国内で生活し、男女年齢関係なく力を発揮してほしい日本社会にとっては特に。
そうでなくとも、利益を求めて交渉していくビジネス関係や、常に何かと板挟みな人間関係の中では、当たり前に必要な力である。
考えの違う人に自分の考えを伝える、相手の考えを聞くことができる力を育むためには、ディベート教育が効果的だと思う。
議論の機会も大事だが、自分の本当の考えに関係なく、賛成・反対の立場をとるというスタイルが素晴らしい。
ぜひ、学校教育はもちろん、企業研修の場でもっともっと取り入れていって欲しい手法だ。
最近では、ネットTVなどで議論する番組が少なくない。
私自身もそんな番組見ていて、自分の見識の狭さに気付くことが多く、勉強させてもらっている。
そんな中で「論破」という言葉をよく聞く。
言い負かすことだが、この論破ができる人がコミュニケーションが高い人のように感じることが多いが、イコール関係ではない。
論破しているシーンは、「異なる考えの人に自分の考えを伝える」ことをしているようにも見えるのだが、相手の表情を見る限り、あまり伝わっていない。
これではコミュニケーションとは言えない。
もちろん相手の理解力もあるが、理詰めで話すだけでは話は伝わらないことの典型だ。
論破できる力のある人は、思考力が高い、頭の回転が速いだけではない。
色々なことを経験したり、学んだりしていて見識が広いことが、言論から伝わってくる。
それだけ見識が広いにもかかわらず、その場だけは相手の立場に立って話すことができていない。
だから相手も意固地になる。
番組も議論ではなく論破をあおっているから仕方ないのだが。
裏を返すと、論破されている人がいたとして、逆にその人が「コミュニケーション力が高い」と感じることもある。
「あ、そういうことか。今までの自分の考え方が180度変わりました」と頭で理解して、素直に言える人は、本当にコミュニケーション力が高いなと感じる。
まさに「異なる考えを聞くことができる力」が高い人だ。
吸収力が高い人なのだろう。
そういう返しをするたびに、見習わなくてはと反省し、同時にその人の考えを理解したくなる。
逆に、相手の考えの理屈が通っている(一理ある)ということに気づけずに、自分の考えを同じ表現で繰り返す人は、、、痛い(>_<)。