「まるで戦時中のよう。」
全ては想像だが、このコロナ危機の中で30代の自分がそう感じることがある。
自粛警察のような国内の空気感もそうだが、特に東京オリンピック開催に関して。
やめられない理由もあるのだろう。
止められない理由もあるのだろう。
経済効果も含めて、一部の利益が発生することもわかる。
多くの人が関わった、ここまでの努力が水の泡になるということもわかる。
大会組織委員会も44人からスタートし、3000人を越えるまでになっているという。
ただ、誰もがわかっていることは、
その開催によって、危険と不安が拡大するということ。
それを全ての人が理解しつつも、「中止」というにならない。
「国民のために」という思いから始まっているはずなのに、その国民に無理を強いている。
今では、「#看護師の五輪派遣は困ります」というツイッターでの声が出るほどになった(愛知県医労連)。
ひめゆり学徒隊を思い出す内容だ。
何よりもその危険性は、オリンピックを推進しようとしている有識者たちが一番よくわかっていることが、戦時中と似ている。
わかっているけど、やめられない。
戦時中。当時は、
「ロシアとの緩衝地帯が必要」との考えから始まった日本の拡大路線。
結果としての、度重なる大国との戦争。敗戦。
今の研究では、「ロシアとの緩衝地帯が必要」という認識自体が間違っていたと言われる。
だが、それ以前に戦争を推進した多くの参謀・司令官は、勝てない戦争とわかって太平洋戦争に進んでいってしまった。
そこに利がある云々以上に、やめられなかったのだろう。止められなかったのだろう。
一部の軍部の力で進んでいった時もあった。
一部の製造業の手招きで進んでしまった時もあった。
「それが唯一の方法」と疑わない暮らしがあったのだろう。
気づいたら、世論によって軍が進んで行かざるを得ない時もあったのだろう。
「やめる」という決断ができないのは、意思決定者の知識不足というわけではないだろう。
そこには、やめられない空気がある。
それはそうだ。「実行」することに向けて「できない理由」をクリアしてきた人ばかりに囲まれているのだから。
「わかっているんだよ、やめるべきことは! 、、、でも」
やめた時の「見えない損失」も見えている。
そして、何より中止を決定した瞬間に「もっと早く決断すればよかったのに」という声が世間にあふれることも想像できている。
つまり、“進むも地獄退くも地獄”ということなのだ。
愚痴を言う人は、どんな環境でも愚痴を言い続けるように、
批判をする人は、どんな状況をしても何をしても批判側に回るので。
だが、“It's never too late to learn.(もの事を始めるのに遅すぎるということは無い)”という言葉があるように、やめるべきことに、やめることが遅すぎるということはないのではないか。
問題は、誰が「決断」するか?
いや、誰が「発信」するか?
2月12日。東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗元会長が辞任した。
世論はもちろん、IOCとスポンサーがダメ出しによって辞任に至ったというが、私個人からすると「ラッキーな引き際だな」と感じてしまった。
「東京オリンピックは中止します!」という発信役をバトンタッチできたのだと。
コロナの影響は非常に身近であり、オリンピックだけの話ではないことは言うまでもない。
ことビジネスにおいては、多くの現場で「やめる」「縮小する」という決断を強いられる場面が多いことだろう。
この1年で淡い期待を持つ人は少なくなったが、それでも過去の積み重ねを考えると、苦渋の決断となっていることは少なくないだろう。
だが、先述の通り、その決断に遅すぎるということはない。
そして、大事なことは、やめたことを英断に変える次の行動なのだから。