飛鳥時代の朝を、少し想像してみよう。
まだ薄暗いうちに、家ではかまどに火が入る。食事を済ませれば田畑へ向かい、米や雑穀を育てる。布を織る人、道具を作る人もいる。住まいには古くからの竪穴建物が残る一方、地面に柱を立てる掘立柱建物も増えていった。
村では、これまでと大きく変わらない暮らしが続いている。しかし少し離れた飛鳥の中心へ行けば、景色は違う。瓦屋根の寺が建ち、宮殿が造られ、朝鮮半島や中国大陸から新しい人、技術、知識が入ってくる。
飛鳥時代は、古い暮らしの上に新しい文化が次々と重なっていった時代だった。
その変化は、政治や仏教だけにとどまらない。
食べ方も変わった。飛鳥時代の後半になると、それまで多かった丸底の器に代わって、机などに置きやすい平底や台付きの器が増えていく。箸や匙を使う大陸風の食事作法が広がったことも、その背景にあると考えられている。
そして、もっと大きく変わり始めたものがある。
人間の身体を、どう考えるかである。
天皇まで、山へ「薬」を探しに行った
611年5月5日、推古天皇は現在の奈良県宇陀市付近へ出かけた。
目的は「薬猟」である。
『日本書紀』によれば、男性たちは鹿を追い、薬になると考えられた若い角を取り、女性たちは薬草を摘んだ。役人たちは冠位に応じた色の冠や服を身につけていたというから、単なる山菜採りではない。中国や高句麗の行事の影響を受けた、宮廷の大きな行事だった。
なぜ、天皇まで薬を探しに山へ出かけたのだろう。
その背景には、日本が海外から学び始めた新しい「身体の知識」がある。
飛鳥時代が始まる少し前の554年には、百済から「医博士」や「採薬師」が来たことが『日本書紀』に記されている。医博士は医学を教える専門家、採薬師は薬になる植物などを扱う専門家である。
それまでの人々も、経験から薬草を使い、傷の手当てをしていただろう。一方で、大きな病気や疫病は神の怒りやたたりと結びつけて考えられることもあった。
そこへ、病気になった身体には薬や鍼などを使い、状態を変えようとする医学が体系だった知識として入ってきた。
病気にならないよう祈るだけではなく、「身体に何かをすれば、良くなるかもしれない」と考える。
飛鳥時代には、そんな新しい見方が宮廷や上流階級を中心に広がり始めた。
「治す」だけではなく、長生きする方法も探した
大陸から伝わったのは、病気になった後の治療法だけではない。
中国の神仙思想には、できるだけ長く健康に生きようとする考えがあった。薬を使い、食べるものに気を配り、身体を動かし、呼吸を整える。不老長生を目指す方法が、さまざまに考えられていた。
現在の医学から見れば、その中には効果のないものも、危険なものもある。
冒頭の薬猟が行われた宇陀は、水銀の原料となる丹砂の産地でもあった。当時の神仙思想では、丹砂は不老長生につながる特別なものと考えられていたが、今では水銀が人体に有害であることが分かっている。
正解を知っていたわけではない。
それでも、「健康や寿命は、何かをすることで変えられるかもしれない」と考えたところに意味がある。
病気になったら治す。それだけではなく、元気なうちから身体を整え、少しでも長くその状態を保とうとする。
ここに、これまでとは違う健康観が見えてくる。
宮廷では、牛乳が「薬」だった
身体に良いものを探す目は、山だけでなく食卓にも向けられた。
孝徳天皇の時代には、渡来人によって牛乳が宮廷へ献上されたとされている。
今なら身近な飲み物だが、当時の日本では珍しい食品だった。しかも、単なる飲み物ではなく、身体の回復を助ける「薬餌」、つまり薬のような食べ物として扱われた。
牛乳を長時間煮詰めて作る「蘇」も、飛鳥時代につくられ始めたとされる。
鍋で何時間も煮詰め、水分が減っていくと、やがて甘みのある固形物になる。現代では「古代のチーズ」と紹介されることもある。
宮廷の人々にとっては、これもまた「身体を良い状態にする方法」の一つだった。
しかし、同じ時代を生きた人々が、みな牛乳や蘇を口にしていたわけではない。
飛鳥池遺跡から見つかった木簡には、「飢者」や「女人」などに食料を支給したことを記したものもある。
宮廷では「どうすればもっと健康に、長く生きられるか」を考える人がいる。一方では、その日の食べ物を必要とする人もいる。
この差を見落とすと、飛鳥時代の健康は貴族の健康法だけになってしまう。
多くの人にとっては、まず食べられること、働けること、明日も身体を動かせることが重要だった。その生活の上に、宮廷を中心として「今より健康に」「今より長く」という新しい考えが重なり始めたのである。
薬を使っても、祈りはなくならなかった
新しい医学が入ってきても、それまでの考え方が消えたわけではない。
680年、天武天皇は皇后の鵜野讃良皇女、後の持統天皇が病気になった際、その回復を願って薬師寺の建立を発願した。薬師寺の本尊である薬師如来は、病を癒やす仏として信仰された。
その一方、飛鳥池遺跡からは、病気になった人のために「万病膏」「神明膏」という薬を求めた木簡も見つかっている。
つまり、薬を使うことと、仏に祈ることは対立していなかった。
病気の原因も、どの治療が本当に効くかも分からない。だから、使えると思われるものを使う。薬を試し、湯につかり、神や仏にも頼る。
『日本書紀』には、631年に舒明天皇が有馬温泉へ行き、長期間滞在したという記録もある。温泉も、身体を休め、調子を整える場所として利用されていた。
現代から見ると、医学と宗教、治療と健康法が混ざっているように見える。
しかし当時の人々にとっては、どれも「身体を少しでも良くするための方法」だったのである。
国が大きくなると、暮らしも変わる
飛鳥時代の後半、日本では国の仕組みそのものが急速に整えられていった。
戸籍をつくり、税を集め、役所を置く。694年には藤原京が造られ、701年には大宝律令が成立する。
その変化は、宮殿の中だけで起きたわけではない。
田畑で作物を育て、布を織り、地方の特産物を作っていた人々も、税として米や布などを納めるようになる。都へ出て働いたり、物を運んだりする負担もあった。
飛鳥時代の「国づくり」は、大勢の人の身体と労働によって支えられていたのである。
多くの人が集まる都ができれば、生活上の問題も増える。
食料や水をどう集めるのか。ごみや排泄物をどう処理するのか。
藤原京からは、道路脇の水路から水を引き込み、その流れの上で用を足したと考えられるトイレの跡も見つかっている。藤原宮の官庁街には、大勢が利用した可能性のある「川屋」もあった。
もちろん、当時の人々が感染症を防ぐ目的で造ったとまでは言えない。
それでも、ムラよりはるかに多くの人が一か所で暮らすようになれば、水や排泄物をどう扱うかまで考えなければ都市は成り立たない。
国が大きくなることは、人々の暮らし方そのものが変わることでもあった。
海外から学んだ医学も、国の仕組みになっていく
同じことが、医療にも起きた。
飛鳥時代の初め、日本は海外から医学の専門家や知識を受け入れていた。それが時代の終わり頃になると、薬を集め、保管し、必要なところへ渡す仕組みが整えられていく。
藤原宮や飛鳥池遺跡からは、薬の名前や受け渡しに関係すると考えられる木簡が数多く見つかっている。
さらに701年の大宝律令では、医療も国の制度の中へ組み込まれた。医師だけでなく、鍼や按摩、薬を扱う人、呪術によって病気に対応する人にも役割が与えられた。
現代の病院とはまったく違う。
それでも、海外から専門家を招いて学んでいた段階から、自分たちで薬を管理し、治療を担う人を置き、その人材を育てる段階へ進んだことは大きい。
政治や税の制度を整えたのと同じように、「病気になった人をどう支えるか」についても、国が仕組みを持ち始めたのである。
飛鳥時代の人が探していたもの
飛鳥時代の人々が見つけた健康法が、すべて正しかったわけではない。
水銀のように、身体に良いと信じられながら、実際には害になるものもあった。牛乳や薬、温泉を利用できたのも、まずは宮廷や上流階級である。多くの人にとっては、毎日食べられ、働けることの方がずっと切実だっただろう。
それでも、この時代には新しい問いが生まれている。
「健康には、何か方法があるのではないか」。
病気になれば薬を試す。元気なうちから身体を整える方法を探す。食べ物にも健康を求める。そして、その知識を少しずつ国の中に蓄えていく。
611年、推古天皇たちは宇陀の山へ薬を探しに出かけた。
そこで求めていたのは鹿の角や薬草だった。
しかし、もっと大きく見れば、飛鳥時代の日本そのものが同じことをしていたとも言える。
海の向こうから新しい知識を学び、試し、ときには間違えながら、人間の身体を少しでも良い状態にする方法を探していた。
国の形が大きく変わった飛鳥時代。
人々の健康もまた、「ただ願うもの」から、「方法を探してみるもの」へと少しずつ変わり始めていたのである。




