日記というか、ひとり言。

健康行動、働き方、学びを、経営学と現場感覚で考えるブログ

時代と共に変わる健康観⑤ 飛鳥時代――牛乳が「薬」で、温泉が「治療」だった

飛鳥時代の朝を、少し想像してみよう。

まだ薄暗いうちに、家ではかまどに火が入る。食事を済ませれば田畑へ向かい、米や雑穀を育てる。布を織る人、道具を作る人もいる。住まいには古くからの竪穴建物が残る一方、地面に柱を立てる掘立柱建物も増えていった。

村では、これまでと大きく変わらない暮らしが続いている。しかし少し離れた飛鳥の中心へ行けば、景色は違う。瓦屋根の寺が建ち、宮殿が造られ、朝鮮半島や中国大陸から新しい人、技術、知識が入ってくる。

飛鳥時代は、古い暮らしの上に新しい文化が次々と重なっていった時代だった。

その変化は、政治や仏教だけにとどまらない。

食べ方も変わった。飛鳥時代の後半になると、それまで多かった丸底の器に代わって、机などに置きやすい平底や台付きの器が増えていく。箸や匙を使う大陸風の食事作法が広がったことも、その背景にあると考えられている。

そして、もっと大きく変わり始めたものがある。

人間の身体を、どう考えるかである。

 

天皇まで、山へ「薬」を探しに行った

611年5月5日、推古天皇は現在の奈良県宇陀市付近へ出かけた。

目的は「薬猟」である。

『日本書紀』によれば、男性たちは鹿を追い、薬になると考えられた若い角を取り、女性たちは薬草を摘んだ。役人たちは冠位に応じた色の冠や服を身につけていたというから、単なる山菜採りではない。中国や高句麗の行事の影響を受けた、宮廷の大きな行事だった。

なぜ、天皇まで薬を探しに山へ出かけたのだろう。

その背景には、日本が海外から学び始めた新しい「身体の知識」がある。

飛鳥時代が始まる少し前の554年には、百済から「医博士」や「採薬師」が来たことが『日本書紀』に記されている。医博士は医学を教える専門家、採薬師は薬になる植物などを扱う専門家である。

それまでの人々も、経験から薬草を使い、傷の手当てをしていただろう。一方で、大きな病気や疫病は神の怒りやたたりと結びつけて考えられることもあった。

そこへ、病気になった身体には薬や鍼などを使い、状態を変えようとする医学が体系だった知識として入ってきた。

病気にならないよう祈るだけではなく、「身体に何かをすれば、良くなるかもしれない」と考える。

飛鳥時代には、そんな新しい見方が宮廷や上流階級を中心に広がり始めた。

 

「治す」だけではなく、長生きする方法も探した

大陸から伝わったのは、病気になった後の治療法だけではない。

中国の神仙思想には、できるだけ長く健康に生きようとする考えがあった。薬を使い、食べるものに気を配り、身体を動かし、呼吸を整える。不老長生を目指す方法が、さまざまに考えられていた。

現在の医学から見れば、その中には効果のないものも、危険なものもある。

冒頭の薬猟が行われた宇陀は、水銀の原料となる丹砂の産地でもあった。当時の神仙思想では、丹砂は不老長生につながる特別なものと考えられていたが、今では水銀が人体に有害であることが分かっている。

正解を知っていたわけではない。

それでも、「健康や寿命は、何かをすることで変えられるかもしれない」と考えたところに意味がある。

病気になったら治す。それだけではなく、元気なうちから身体を整え、少しでも長くその状態を保とうとする。

ここに、これまでとは違う健康観が見えてくる。

宮廷では、牛乳が「薬」だった

身体に良いものを探す目は、山だけでなく食卓にも向けられた。

孝徳天皇の時代には、渡来人によって牛乳が宮廷へ献上されたとされている。

今なら身近な飲み物だが、当時の日本では珍しい食品だった。しかも、単なる飲み物ではなく、身体の回復を助ける「薬餌」、つまり薬のような食べ物として扱われた。

牛乳を長時間煮詰めて作る「蘇」も、飛鳥時代につくられ始めたとされる。

鍋で何時間も煮詰め、水分が減っていくと、やがて甘みのある固形物になる。現代では「古代のチーズ」と紹介されることもある。

宮廷の人々にとっては、これもまた「身体を良い状態にする方法」の一つだった。

しかし、同じ時代を生きた人々が、みな牛乳や蘇を口にしていたわけではない。

飛鳥池遺跡から見つかった木簡には、「飢者」や「女人」などに食料を支給したことを記したものもある。

宮廷では「どうすればもっと健康に、長く生きられるか」を考える人がいる。一方では、その日の食べ物を必要とする人もいる。

この差を見落とすと、飛鳥時代の健康は貴族の健康法だけになってしまう。

多くの人にとっては、まず食べられること、働けること、明日も身体を動かせることが重要だった。その生活の上に、宮廷を中心として「今より健康に」「今より長く」という新しい考えが重なり始めたのである。

 

薬を使っても、祈りはなくならなかった

新しい医学が入ってきても、それまでの考え方が消えたわけではない。

680年、天武天皇は皇后の鵜野讃良皇女、後の持統天皇が病気になった際、その回復を願って薬師寺の建立を発願した。薬師寺の本尊である薬師如来は、病を癒やす仏として信仰された。

その一方、飛鳥池遺跡からは、病気になった人のために「万病膏」「神明膏」という薬を求めた木簡も見つかっている。

つまり、薬を使うことと、仏に祈ることは対立していなかった。

病気の原因も、どの治療が本当に効くかも分からない。だから、使えると思われるものを使う。薬を試し、湯につかり、神や仏にも頼る。

『日本書紀』には、631年に舒明天皇が有馬温泉へ行き、長期間滞在したという記録もある。温泉も、身体を休め、調子を整える場所として利用されていた。

現代から見ると、医学と宗教、治療と健康法が混ざっているように見える。

しかし当時の人々にとっては、どれも「身体を少しでも良くするための方法」だったのである。

 

国が大きくなると、暮らしも変わる

飛鳥時代の後半、日本では国の仕組みそのものが急速に整えられていった。

戸籍をつくり、税を集め、役所を置く。694年には藤原京が造られ、701年には大宝律令が成立する。

その変化は、宮殿の中だけで起きたわけではない。

田畑で作物を育て、布を織り、地方の特産物を作っていた人々も、税として米や布などを納めるようになる。都へ出て働いたり、物を運んだりする負担もあった。

飛鳥時代の「国づくり」は、大勢の人の身体と労働によって支えられていたのである。

多くの人が集まる都ができれば、生活上の問題も増える。

食料や水をどう集めるのか。ごみや排泄物をどう処理するのか。

藤原京からは、道路脇の水路から水を引き込み、その流れの上で用を足したと考えられるトイレの跡も見つかっている。藤原宮の官庁街には、大勢が利用した可能性のある「川屋」もあった。

もちろん、当時の人々が感染症を防ぐ目的で造ったとまでは言えない。

それでも、ムラよりはるかに多くの人が一か所で暮らすようになれば、水や排泄物をどう扱うかまで考えなければ都市は成り立たない。

国が大きくなることは、人々の暮らし方そのものが変わることでもあった。

 

海外から学んだ医学も、国の仕組みになっていく

同じことが、医療にも起きた。

飛鳥時代の初め、日本は海外から医学の専門家や知識を受け入れていた。それが時代の終わり頃になると、薬を集め、保管し、必要なところへ渡す仕組みが整えられていく。

藤原宮や飛鳥池遺跡からは、薬の名前や受け渡しに関係すると考えられる木簡が数多く見つかっている。

さらに701年の大宝律令では、医療も国の制度の中へ組み込まれた。医師だけでなく、鍼や按摩、薬を扱う人、呪術によって病気に対応する人にも役割が与えられた。

現代の病院とはまったく違う。

それでも、海外から専門家を招いて学んでいた段階から、自分たちで薬を管理し、治療を担う人を置き、その人材を育てる段階へ進んだことは大きい。

政治や税の制度を整えたのと同じように、「病気になった人をどう支えるか」についても、国が仕組みを持ち始めたのである。

 

飛鳥時代の人が探していたもの

飛鳥時代の人々が見つけた健康法が、すべて正しかったわけではない。

水銀のように、身体に良いと信じられながら、実際には害になるものもあった。牛乳や薬、温泉を利用できたのも、まずは宮廷や上流階級である。多くの人にとっては、毎日食べられ、働けることの方がずっと切実だっただろう。

それでも、この時代には新しい問いが生まれている。

「健康には、何か方法があるのではないか」。

病気になれば薬を試す。元気なうちから身体を整える方法を探す。食べ物にも健康を求める。そして、その知識を少しずつ国の中に蓄えていく。

611年、推古天皇たちは宇陀の山へ薬を探しに出かけた。

そこで求めていたのは鹿の角や薬草だった。

しかし、もっと大きく見れば、飛鳥時代の日本そのものが同じことをしていたとも言える。

海の向こうから新しい知識を学び、試し、ときには間違えながら、人間の身体を少しでも良い状態にする方法を探していた。

国の形が大きく変わった飛鳥時代。

人々の健康もまた、「ただ願うもの」から、「方法を探してみるもの」へと少しずつ変わり始めていたのである。

 

 

時代と共に変わる健康観④ 古墳時代――かまどの煙は、国の健康診断だった

8世紀にまとめられた『日本書紀』に、後に仁徳天皇と呼ばれる大王と「かまどの煙」をめぐる話がある。

ある日、大王が高台から人々の家を見渡すと、いつもなら見えるはずの煙が上がっていなかった。食事を作る煙が見えないのは、人々に炊くものがないからだ。暮らしの苦しさを知った大王は、数年間、税を取らないことにしたという。

もちろん、これは仁徳天皇の時代とされる頃から数百年後に書かれた話であり、実際の出来事をそのまま伝えているとは限らない。それでも、この話が示す考え方は興味深い。人々が食べられているかどうかは、各家庭だけの問題ではなく、国を治める者の責任でもあるというのだ。

家から煙が上がる。それは、食べ物があり、火を使って料理をし、家族がいつもの暮らしを送っているということだ。反対に、煙が上がらなければ、その家では食事を作ることさえ難しくなっているのかもしれない。かまどの煙は、人々の暮らしぶりを目に見える形で表していたのである。

 

そして、この話に登場する「かまど」そのものが、古墳時代の暮らしを大きく変えた新しい文化の一つだった。

古墳時代は、一般に3世紀中頃から7世紀頃までとされる。巨大な古墳が各地に造られたことで知られているが、この時代に変わったのは墓の大きさだけではない。朝鮮半島や中国大陸との交流が活発になり、新しい技術や文化が、農業、移動、住まい、そして毎日の食卓にまで入ってきた。特に5世紀は、須恵器や鉄器、馬の飼育、灌漑、かまどなどが広がったことから、「技術革新の世紀」と評価されることもある。

新しい文化は、王や豪族の持ち物だけでなく、普通の家の食事や住まいまで変えていった。その一方で、人の移動が増えれば、病気も広がりやすくなる。さらに、大王や豪族が多くのムラをまとめるようになると、人々の暮らしと政治との関係も変わっていく。

では、そんな古墳時代に、「健康」はどのような意味を持つようになったのだろうか。

 

古墳時代の食卓は、米だけではなかった

古墳時代の人々も、米を大切な食料としていた。しかし、米だけで生活していたわけではない。

アワやキビなどの穀物、豆、野菜、山菜、木の実、川や海で捕った魚介類も食べていた。地域や季節によっては、イノシシやシカなどの肉も口にしていたと考えられている。田んぼに近い場所ではコイやフナなどの淡水魚を捕り、山に近い場所では木の実や山菜を集めるなど、土地によって食卓の中身も違っていただろう。

 

遺跡からは、当時の食事を想像させるものも見つかっている。

その一つが桃の種である。岡山県内だけでも、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡から、1万個を超える桃の種が出土している。当時の桃は現在のものより小さく、食べ物としてだけでなく、まつりや魔よけに使われた可能性もあるという。

蒸した米に、川魚と山菜の汁物。季節によっては肉や木の実が加わり、食後には小さな桃をかじる。この献立が実際に一度に並んだ証拠はないが、遺跡から見つかった食材をつなぎ合わせると、古墳時代の家から漂ってきた匂いまで想像できる。

 

だからといって、誰もが毎日、十分な食事を取れたわけではない。天候が悪ければ米は実らず、税として納める量が増えれば、家に残る食料は少なくなる。食べ物を作るだけでなく、蓄え、必要な人へ分ける仕組みが動かなければ、家々のかまどから煙は上がらない。

そして古墳時代には、食べる物だけでなく、食事を作る場所や方法も大きく変わっていった。

 

海の向こうから、台所の形まで変わった

弥生時代の竪穴住居では、床の中央付近に造った炉で煮炊きをすることが多かった。

古墳時代の中頃になると、朝鮮半島の影響を受けたかまどが広がり始める。かまどは住居の壁際に造られ、上に釜や土器を置いて調理した。新しい道具が一つ増えただけではない。家のどこで火を使い、どこで食事を作るのかという、台所の形そのものが変わったのである。

かまどでは、釜と甑を組み合わせた蒸し料理も行われた。

甑とは、底に穴が開いた、現在の蒸し器のような土器である。下の釜で湯を沸かし、その蒸気を甑の穴に通すことで、米やほかの食材を蒸すことができた。これによって、粥や雑炊とは違う、粒の形が残った蒸し飯も作られるようになった。

横浜市内の遺跡からは、おにぎりのように米を固めた炭化物も見つかっている。古墳工事のために作られたとまでは分からないが、蒸した米を握ったものなら、田畑や仕事場へ持っていくこともできただろう。二千年近く前の人も、朝に食べ物を包み、昼になったら仕事の手を止めて食べていたのかもしれない。

 

5世紀頃には、須恵器を作る技術も朝鮮半島から伝わった。須恵器は斜面に造った窯の中で、1000度を超える高温で焼かれる。野焼きで作る赤褐色の土師器よりも硬く、水や酒などを入れる器や、料理を盛る器として使われた。灰色や青灰色の須恵器を初めて見た人には、土器とは思えないほど新しく見えたかもしれない。

食器の使い方にも変化が見られる。小さな坏などが広がり、大きな器から皆で直接食べるだけでなく、料理を一人分ずつ器に盛る場面も増えたと考えられている。酒を造ったり、食料や飲み物を蓄えたりする器も多様になっていった。

 

海の向こうから伝わったのは、かまどや器そのものだけではなかった。

米を蒸す方法、窯で硬い器を焼く方法、食べ物を蓄える方法、一人分ずつ器に盛る食べ方。毎日繰り返される料理や食事の形まで、海を渡ってきたのである。

朝鮮半島から移り住んだ人が、初めて集落にかまどを造る。その周りに人々が集まり、見慣れない甑から立ち上がる湯気を眺める。やがて近くの家でも同じかまどが造られ、新しい食べ方が当たり前になっていく。

海外の文化が日本列島に根づくとは、王が珍しい外国の品を手に入れることだけではない。普通の家で、昨日とは違う方法で夕食が作られることでもあった。

 

かまどの外でも、暮らしが大きく変わった

海外との交流が変えたのは、台所だけではない。

鉄を加工する技術が広がると、農具や武器も変わった。新しい土木や灌漑の技術は、田畑や水路を造る力を高めた。馬と乗馬の文化が入ると、人や情報、物を以前より速く遠くへ運べるようになった。朝鮮半島から伝わった技術は、日本列島の人々によって取り入れられ、各地の暮らしに合わせて使われていった。

こうした変化によって、離れたムラ同士が結ばれ、より多くの人をまとめる大王や豪族の力も強まっていった。

鉄の農具で土地を開き、米を増やす。馬を使って人や物を運ぶ。集めた食料を蓄え、必要な場所へ届ける。そうして多くの人を長い期間動かすことができたからこそ、巨大な古墳も造れたのである。

 

巨大な古墳を造るには、大勢の食事が必要だった

大きな前方後円墳を見ると、私たちは中に葬られた大王や豪族の力に目を向ける。

しかし、古墳は大王一人では造れない。

木や草を刈り、土地を平らにする人がいる。土を掘り、運び、積み上げる人もいる。石を切り出して運ぶ人、鉄の道具を作る人、工事の指示を出す人も必要だった。

仁徳天皇陵古墳として管理されている大仙古墳は、墳丘の長さが486メートルもある。堺市が紹介する一つの試算では、工事の多い時期に一日約2,000人が働いても、完成まで15年以上かかったとされている。さらに、働く人へ食料や道具を届ける人も必要だった。

これほど大勢の人を動かすには、命令を出すだけでは足りない。

毎日、食べ物と水を用意し、工事の場所まで運ばなければならない。食事が届かなければ、どれほど立派な計画があっても、翌日には工事が止まってしまう。

蒸した米を固めた携帯食が、こうした工事で実際に使われた証拠はない。それでも、器がなくても持ち運べる食事は、田畑や遠くの作業場で働く人にとって便利だったはずである。

 

古墳の大きさは、大王がどれほど多くの人を集められたかを示している。それと同時に、大勢が働き続けられるだけの食料を集め、蓄え、運ぶ力があったことも示している。

古墳を造ったのは、名も残らなかった多くの人々である。そして、その人々の身体を毎日動かしていたのは、かまどで作られた食事だった。

だが、人が広い地域を行き来するようになると、海の向こうから運ばれるものを選ぶことはできなくなる。

 

新たな文化と同じ道を、病気も通った

朝鮮半島や中国大陸との交流は、日本列島の暮らしを大きく変えた。かまど、甑、須恵器、鉄を加工する技術、馬、そして仏教。海の向こうから、新しい物や考え方が次々と入ってきた。

しかし、人が移動すれば、その人が持つ病原体も一緒に移動する。

『古事記』や『日本書紀』には、古墳時代に疫病がたびたび流行し、多くの人が亡くなったという話が残されている。ただし、ほとんどは「疫病」と書かれているだけで、何の感染症だったのかは分からない。

6世紀後半には、『日本書紀』に「瘡」と呼ばれる病気が広がったという記述が現れる。これを天然痘とみる説もあるが、病名を確定することはできない。ただ、人や物の往来が盛んになれば、病気も地域を越えて広がりやすくなる。

古墳時代の人々は、細菌やウイルスの存在を知らない。なぜ同じ病気に多くの人がかかるのかも分からなかった。

大陸から医師が来て、大王など身分の高い人の治療をすることはあったが、使える治療法は限られていた。大規模な疫病に対しては、薬草だけでなく、祈りや儀式によって病気を鎮めようとした。『古事記』や『日本書紀』には、疫病を神の怒りや政治の誤りと結びつける考え方も表れている。

病気は人の身体の中で起きている。しかし、その原因は、神々や政治の世界にあると考えられたのである。

疫病が広がれば、亡くなる人が増えるだけではない。田を耕す人が減れば、次の年の食料も少なくなる。古墳や水路の工事は進まず、税を納める人や戦う人も減る。食料が不足すれば、さらに人々の身体が弱り、国を治める仕組みそのものが揺らいでいく。

人々を飢えや疫病から守れなければ、「この大王は、正しく国を治めていないのではないか」と思われるかもしれない。

ここで、人々の健康は初めて、政治の中心にまでつながってくる。

 

健康な国とは、かまどから煙が上がる国だった

弥生時代には、一人が働けなくなると、皆で進める米づくりに影響した。そのため、健康は本人だけのものではなく、同じムラで暮らす人々にも関わるものになった。

古墳時代になると、大王や豪族が複数のムラをまとめ、より多くの人を動かすようになる。ここでいう「国」とは、現代の日本のような国家ではなく、大王や豪族が支配した広い範囲のことである。

人々が十分に食べられているか。疫病で大勢が倒れていないか。田畑を耕す人、古墳を造る人、税を納める人が、明日も暮らしを続けられるか。

それらは、もう一つのムラだけで解決する問題ではなかった。

弥生時代には、同じ田で働く人が倒れれば、ムラの仲間が困った。

古墳時代には、飢えや疫病によって多くの家から煙が消えれば、大王の政治そのものが揺らいだのである。

 

家々からかまどの煙が上がっている。

それは、食べ物があり、食事を作る人がいて、家族が今日も暮らしていることを示している。夕方になれば人々が家へ戻り、同じかまどを囲み、次の日のために身体を休める。

反対に、煙が消えれば、その家では食べ物が尽きたのかもしれない。病気によって、食事を作る人も食べる人もいなくなった可能性もある。

古墳時代には、人々の健康が、国を治める者の成績まで映すようになった。

大王の力を知りたければ、巨大な古墳を見ればよい。どれほど多くの人を集め、動かせたのかが分かる。

しかし、その人々が日々食べ、健やかに暮らしていたかを知りたければ、見るべきものは古墳ではなかったのかもしれない。

 

古墳は、大王の力を後世に残した。

かまどの煙は、名も残らなかった人々の暮らしを、その日ごとに伝えていた。

古墳時代の「健康な国」とは、巨大な墓を造れる国だけではない。

毎日、家々のかまどから煙が上がる国だったのである。

 

 

時代と共に変わる健康観③ 弥生時代――健康は、自分だけのものではなくなった

縄文時代、健康とは、仲間と共に次の季節を迎えられることだった。病気やけがで弱ったときにはムラに支えられ、誰かが動けなければ、できる人がその暮らしを補った。

弥生時代になると、そこに別の意味が加わる。元気な人はムラに支えられるだけでなく、ムラを支える側としても頼りにされるようになったのである。

この違いを生んだのが、米づくりだった。

 

一人の不調が、ムラの問題になった

弥生時代は、九州北部で水田稲作が始まった紀元前10世紀頃から、古墳が造られ始める3世紀頃まで、およそ1,200年続いたと考えられている。もっとも、日本列島のすべての地域が、一斉に米づくりへ移ったわけではない。

また、弥生時代に初めてムラや共同作業が生まれたわけでもない。縄文時代にも、人々は協力して狩りや漁を行い、食料を蓄えていた。

水田稲作の特徴は、多くの人が同じ土地と水を使い、長い期間をかけて一つの収穫を目指すことにある。

田を整え、水路を引き、稲を育て、実った米を収穫する。水路が壊れれば直さなければならず、水の使い方も周囲と相談して決める。自分の仕事だけを済ませればよい、というものではなかった。

だから、一人が動けなくなったときの影響も大きくなる。

田の作業が遅れれば、収穫が減るかもしれない。水路を直す人がいなければ、いくつもの田に水が届かない。病気やけがは、本人や家族だけでなく、同じ田で働く人々にも関係する問題になった。

人の身体と、ムラの食料が、これまで以上に強く結びついたのである。

 

米は、安心だけをもたらしたのではない

無事に収穫できれば、米の一部を倉に蓄えておける。食料の少ない時期に備え、翌年にまく種もみも残せる。

その日を生きるだけでなく、数か月先や翌年の暮らしまで考えられるようになったことは、大きな変化だった。

しかし、米がたまれば、新しい問題も生まれる。

どのくらいを残し、どのくらいを分けるのか。不作の年には、誰に米を渡すのか。田や水を、誰が使うのか。人が増えるにつれて、田で働く人だけでなく、道具をつくる人、米を管理する人、全体をまとめる人など、仕事や立場も分かれていった。

さらに、蓄えた米は奪われることもある。

水田も、水路も、米を収めた倉も、危険が迫ったからといって持って逃げることはできない。弥生時代には、ムラの周囲を壕で囲んだ環壕集落が現れ、人骨からは武器による傷も見つかっている。

米は飢えを遠ざけた一方で、争いの理由にもなった。

田を耕す人だけでなく、米を管理する人、見張りに立つ人、ときには武器を持って戦う人まで必要になった。豊かになるほど、ムラを動かすための役割も増えていったのである。

 

健康でいてほしい理由が変わった

病気やけがをした人を、仲間が支える。その関係は、弥生時代にも続いていただろう。

ただし、米づくりを中心とするムラでは、その人が担っていた仕事を誰かが代わりに引き受けなければならない。助ける側にも、すでに自分の仕事がある。

家族や仲間が「元気でいてほしい」と願うのは、大切な人だからである。それに加えて、弥生時代には、その人の働きが皆の暮らしに必要だから、という理由も生まれた。

 

ここに、少し複雑な変化がある。

ムラは、蓄えた米を分け、外からの攻撃に備えることで、人々を守る。その一方で、ムラの中で暮らす人にも、自分の役割を果たすことを求める。

健康であることが、本人の願いだけではなく、周囲からも期待されるようになったのである。

 

人が元気でも、米は実らない

それでも、働ける人がそろえば、暮らしが必ず安定するわけではない。

雨が降らなければ稲は育たず、降りすぎても収穫は減る。病気が広がることもあれば、争いによって田を失うこともある。

多くの人が米づくりで結びつくほど、不作の影響もムラ全体へ広がった。人々は仕事だけでなく、不安も共有するようになったのである。

弥生時代の終わり頃に登場した卑弥呼は、「鬼道」と呼ばれる祈りを行い、人々をまとめたと中国の歴史書に記されている。

なぜ、祈る人物がクニの中心に立ったのだろうか。

豊作を願うこと、不作への不安を受け止めること、争う集団をまとめることは、当時は今ほど別々の仕事ではなかったのだろう。祈りによって天候を変えることはできない。それでも、原因の分からない出来事に意味を与え、人々の気持ちを一つにすることはできた。

身体が元気であるだけでは、ムラの暮らしは守れない。米が実り、人々が争わず、安心して働けることまで必要だったのである。

 

米づくりが変えたのは、食事だけではない

弥生時代の人々にとって、健康は、単に病気ではないことを意味していたのではない。

田に出られること。自分の仕事を引き受けられること。仲間と同じ収穫を待てること。そのような状態も、健康の一部になっていったと考えられる。

この関係には、現代にも見覚えがある。社会は病気になった人を支える一方で、一人ひとりにも健康でいることを求めている。

しかし、弥生時代の人々が考えていたのは、制度や理念の話ではない。もっと目の前の問題だった。

同じ水を使い、同じ米を待つようになれば、隣にいる人の体調を無関心ではいられない。

米づくりが変えたのは、食事だけではなかった。

人々の健康に、本人以外の期待が入り始めたのである。

 

時代と共に変わる健康観② 縄文時代――健康とは、次の季節を迎えられることだった

縄文人にも、虫歯があった。

しかも、残された歯を調べると、現代人よりも激しくすり減っている。自然の食べ物だけを口にし、毎日よく身体を動かしていたのだから、さぞ健康だっただろうと思いたくなるが、実際はそれほど単純ではない。

 

このシリーズでは、生活や社会の変化とともに、人々が健康をどのように捉えてきたのかをたどっていく。

第2回で取り上げるのは、日本列島の縄文時代である。

縄文時代にも文字による記録はない。当時の人が「健康とは何か」を書き残した文章も見つかっていない。そのため、住居や墓、土器、人骨、食べ物の痕跡などから、人々にとって健康がどのような意味を持っていたのかを考えてみたい。

 

旧石器時代から、何が変わったのか

縄文時代は、今から約1万5千年前に始まり、本格的な稲作が広がる約2,400年前まで、1万年以上続いた。

日本の歴史の中でも、圧倒的に長い時代である。約260年間続いた江戸時代を40回ほど繰り返しても、まだ縄文時代には届かない。

このころ、長く続いた氷河期が終わり、気候が暖かくなった。森にはクリ、クルミ、ドングリなどが増え、海面の上昇によって入り江や干潟が生まれ、魚や貝も得やすくなった。

人々は、食料を求めて常に移動する生活から、同じ場所を生活の拠点とする暮らしへ少しずつ移っていった。竪穴住居が並ぶムラが生まれ、その中には食料を蓄える穴、墓、広場などもつくられた。

 

旧石器時代の健康は、「明日も動けることだった」だった。

縄文時代になると、人々はただ今日を生き延びるだけではなく、同じ場所で次の季節を迎えるために、暮らしを整えるようになった。

健康の時間軸が、少し長くなったのである。

 

土器は、最初の健康器具だったかもしれない

縄文時代を代表するものといえば、縄文土器である。

教科書では、土器の表面に縄を転がした模様が説明される。しかし、健康という視点から見ると、模様よりも重要なのは、土器の中に食べ物を入れて火にかけられるようになったことである。

土器があれば、食べ物を焼くだけでなく、煮ることができる。

硬い木の実を煮る。魚や肉を汁ごと食べる。複数の食材を一緒に調理する。余った食料を入れておく。土器の登場によって、利用できる食材や調理方法が広がった。

現代の鍋と保存容器を合わせたような道具だったと考えると、その便利さが分かりやすい。

土器は、単に料理をおいしくしたのではない。

食材を煮ることで、硬い木の実や肉なども食べやすくなった。食べ物を保存し、食料が少ない季節に備えることも、少しずつ可能になった。

健康を守る方法が、「食料を探すこと」だけでなく、「食材を生かし、蓄え、暮らしを安定させること」へ広がったのである。

 

健康は、個人の体力からムラの力へ

定住生活は、一人では成り立たない。

家をつくり、屋根を直し、食料を集め、木の実を加工し、道具を作る。火を保ち、子どもを育て、亡くなった人を葬る。ムラでの生活には、長い時間をかけて協力する必要があった。

青森県の三内丸山遺跡は、約5,900年前から約4,200年前に営まれた大規模な集落である。そこからは、多数の竪穴建物、大型の建物、貯蔵穴、大人や子どもの墓などが見つかっている。住む場所、物を蓄える場所、死者を葬る場所が、ムラの中に計画的につくられていた。

 

旧石器時代の集団は、食料に合わせて移動した。

縄文時代のムラでは、人々は同じ場所で何年も暮らし、その場所を維持した。健康を支えるものも、一人の脚力や狩りの能力だけではなくなっていく。

食料を蓄えられること。

住居を修理できること。

知識や技術を次の世代へ渡せること。

誰かが動けないときに、別の人が役割を補えること。

健康な人が集まってムラができたというより、ムラがあることで、人々の健康や生活が支えられるようになったと考えた方がよいのかもしれない。

健康は、個人の能力から、共同体が暮らしを維持する力へと広がったのである。

 

自然の食事でも、虫歯にはなった

縄文時代の人々は、木の実、植物、魚、貝、動物の肉など、地域と季節に合わせてさまざまなものを食べていた。弓矢や釣り針、銛なども使われ、犬が飼われ、植物の栽培も行われていた。

現代では、このような食生活を聞くと、「加工食品も砂糖もないのだから、健康的だったはずだ」と考えやすい。

しかし、縄文人の歯からは虫歯が見つかっている。

縄文時代の虫歯は、現代人に多い歯のかみ合わせ部分より、歯と歯の間や歯の根元にできるものが多かった。また、歯のすり減りも激しく、中年以降になるとかなり進んでいたことが報告されている。

自然のものを食べていれば、病気にならないわけではない。

硬い食べ物をかむ。食材を石で砕き、加工する。歯を道具のように使う。植物性の食べ物を口にする。縄文人の口の中にも、その時代の食生活による負担が残されている。

私たちは「昔の自然な暮らし」を理想化しがちである。

だが、縄文時代の人々も、歯の痛みやけが、感染症、出産など、さまざまな健康上の問題を抱えていたはずである。現代より健康だったのではなく、現代とは異なる問題を抱えていたのである。

 

また、縄文人の中には、健康な前歯を意図的に抜いた人もいた。成人や結婚など、人生の節目を示す儀礼だったと考えられている。食べる機能を守ることよりも、ムラの一員として認められることを重視する場面もあったのだろう。健康な身体を保つことと、社会の中で生きることは、必ずしも同じではなかったのである。

 

治せないものには、祈りで向き合った

食料を蓄え、家を建てることはできても、病気や死を完全に防ぐことはできない。

なぜ急に熱が出るのか。

なぜ子どもが亡くなるのか。

なぜ獲物が捕れなくなるのか。

当時の人々には、細菌やウイルス、身体の内部についての知識はなかった。原因が分からず、自分たちの力だけでは解決できないことも多かっただろう。

縄文時代の遺跡からは、土偶、環状列石、石棒など、日常の道具とは考えにくいものが見つかっている。正確な用途は分かっていないが、豊かな実りや狩りの安全を願う儀礼、死者の供養などに使われたと考えられている。

亡くなった大人は地面に掘った墓へ埋葬され、子どもは土器の中に埋葬されることもあった。墓はムラの中や近くにつくられ、死者は生活の場から完全に切り離されてはいなかった。

 

祈りは、現代の医学から見れば治療ではない。

しかし、原因の分からない病気や死に直面した人々にとって、何もせずに受け入れることと、仲間と祈り、儀式を行うことは同じではなかっただろう。

祈りには、自然に働きかける意味だけでなく、不安や悲しみを集団で受け止め、ムラのつながりを確かめる役割もあったと考えられる。

縄文時代の健康は、身体の状態だけではなく、自然や死者との関係まで含んでいたのかもしれない。

 

定住すれば、すべてが安全になるわけではない

同じ場所で暮らし続けるには、その周辺の森、川、海から食料を得続けなければならない。木の実が不作になり、魚や動物が減れば、ムラ全体の暮らしが揺らぐ。

縄文人は、一つの生活方法に固執したのではなく、環境の変化に合わせて、食べるものや集落の場所を変えながら暮らした。

旧石器時代から引き継いだ「自然を読む力」に、食料を蓄え、ムラを維持し、暮らしを組み直す力が加わったのである。

 

健康とは、次の季節を迎えられることだった

縄文時代になると、人々の暮らしは大きく変わった。

土器で食材を煮て、保存する。

住居を建て、同じ場所で暮らす。

食料や道具を蓄える。

家族や仲間と役割を分ける。

病気や死、自然の恵みに祈りをささげる。

健康は、今日動けるかどうかだけではなく、ムラの暮らしを途切れさせず、次の季節へつなげられるかどうかで考えられるようになった。

この時代の健康観を一言で表すなら、

「健康とは、仲間と共に次の季節を迎えられることである」

となるだろう。

 

現代の私たちは、将来の病気を防ぐために健康診断を受け、食事や運動を見直す。

縄文人に健康診断はなかった。しかし、食料を蓄え、住居を整え、自然の変化に備えるという、将来の暮らしを守る発想はすでにあった。

健康を支えるものは、目の前の危険を乗り越える力だけではなく、暮らしを次の季節へつなぐ力へと広がっていったのである。

 

 

時代と共に変わる健康観① 旧石器時代――健康とは、明日も動けることだった

今から3万年ほど前の冬を想像してみよう。

食べ物を求めて移動している一団の中で、一人が足を痛めた。

現代なら、病院で診てもらい、仕事や学校を休むことができる。しかし、当時は病院も薬局もない。食料が少なくなれば、その場所にとどまり続けることもできない。

移動を遅らせるのか。荷物を誰かが代わりに持つのか。食べ物を分けながら回復を待つのか。

一人のけがによって、集団全体の暮らしが変わる。

 

このシリーズでは、生活や社会の変化とともに、人々が健康をどのように捉えてきたのかをたどっていく。第1回で取り上げるのは、日本列島の旧石器時代である。

もちろん、この時代には文字がない。当時の人が「健康とは何か」を書き残した記録もない。そのため、遺跡、石器、食べ物の痕跡、当時の自然環境などから、人々にとって健康がどのような意味を持っていたのかを考えてみたい。

 

日本列島に人が暮らし始めた時代

日本列島の後期旧石器時代は、およそ3万7千年前から1万6千年前までとされている。

約3万7千年前にホモ・サピエンスが日本列島で暮らし始め、約1万6千年前になると土器が現れ、縄文時代の始まりへとつながっていく。

当時は最終氷期と呼ばれる寒い時代だった。人々は一つの場所に村をつくって住み続けるのではなく、季節や食料に合わせて移動する狩猟採集生活を送っていた。

その間にも、人々の暮らしを想像させる出来事が残されている。

約3万4千年前には、現在の千葉県に、多くの人々が集まった墨古沢遺跡がつくられた。約2万3千年前の沖縄では、貝殻から作った釣り針が使われていた。

歴史の教科書では数行で終わる時代だが、実際には約2万年も続いている。江戸時代の約260年と比べても、桁違いに長い。

その長い時代を生きた人々にとって、健康とは何だったのだろうか。

 

健康は、身体の中を調べて判断するものではなかった

現代では、元気に見える人でも健康診断を受ける。

血圧や血糖値が高ければ、本人に症状がなくても「将来、病気になる危険がある」と判断される。健康は、目に見えない身体の内部まで含めて評価される。

当たり前であるが、旧石器時代には、そのような見方はできない。

身体の中を調べる検査もなければ、将来の病気を予測する医学もない。そもそも、現在のように病気を細かく分類する言葉もなかっただろう。

 

当時、身体の状態を判断する基準は、もっと直接的だったはずである。

歩けるか。

食べ物を探せるか。

荷物を運べるか。

石器を作れるか。

寒さの中で動けるか。

つまり、健康とは「身体に異常がないこと」ではなく、「その日の暮らしに必要なことができること」だったと考えられる。

ただし、これは体力のある人だけが健康だったという意味ではない。

旧石器時代の暮らしを支えていたのは、身体の強さだけではなかったからである。

 

健康を支えたのは、自然を読む知識だった

旧石器時代の人々は、カロリーやビタミンという言葉を知らない。

それでも、食べ物を得るには、季節と自然をよく知っていなければならなかった。

いつ、どの動物が移動するのか。

どこへ行けば水があるのか。

どの植物は食べられ、どの植物は危険なのか。

天候が悪くなったとき、どこへ避難すればよいのか。

沖縄のサキタリ洞遺跡では、約2万3千年前の貝製の釣り針が見つかっている。さらに、残されたカニの殻から、人々がモクズガニの旬である秋に洞窟を訪れていたことも分かっている。

旧石器時代の人々は、偶然見つけた食べ物を口にしながら歩き回っていたわけではない。

「秋になれば、あの場所でカニが捕れる」

「この時期には、獲物がこの辺りを通る」

そのような季節の地図を、頭の中に持っていたのである。

 

現代では、健康を守る知識といえば、栄養や運動、病気の知識を思い浮かべる。

旧石器時代では、自然についての知識が、食料を得て、危険を避け、命をつなぐための健康知識だった。

体力があっても、行く場所や時期を間違えれば食料は得られない。当時の「強い人」とは、足が速い人だけではなく、自然の変化を読み、その知識を仲間に伝えられる人でもあったのだろう。

 

人間の弱さは、道具によって補われた

人間には、寒さを防ぐ毛皮も、獲物を倒す牙も、肉を切る爪もない。

身体だけを比べれば、自然の中で特別に強い動物ではない。

そこで人間は、自分の身体にないものを外につくった。

石を割って鋭い刃を作る。槍の先に取り付ける。動物の皮を加工して寒さを防ぐ。火を使って身体を温め、食べ物を調理する。国立歴史民俗博物館でも、石器作りや皮なめしの復元を通して、旧石器時代の暮らしが紹介されている。

 

現代では、防寒着を着ることを特別な健康法とは呼ばない。

しかし、寒さの厳しい時代には、身体を冷やさないことが命に直結する。石器を作る技術や火を保つ知識は、便利な生活道具であると同時に、人間の身体を守る仕組みでもあった。

健康は、本人が生まれつき持っている体力だけで決まるものではなかった。

知識と道具によって身体の弱さを補い、暮らせる状態をつくることも、健康の一部だったのである。

 

健康は、一人だけのものではなかった

旧石器時代の人々は、季節に合わせて移動しながら、血縁を中心とする数家族程度の小さな集団で暮らしていたと考えられている。

人数が多すぎれば、それだけ多くの食料が必要になる。一方、人数が少なすぎれば、狩りや移動、子どもの世話を分担することが難しくなる。

普段は小さな集団で動きながら、必要なときには複数の集団が集まった。

それを示すのが、千葉県酒々井町の墨古沢遺跡である。

約3万4千年前のこの遺跡では、石器が集中する場所が大きな輪のように並んでいる。大型動物の狩猟や解体、石材や情報の交換などのために、普段は別々に行動していた集団が一時的に集まったと考えられている。大規模な集まりでは、100人から150人ほどが暮らしていたという推定もある。

ただし、100人以上が一年中一緒に暮らしていたわけではない。必要なときに集まり、物や情報を交換し、再び小さな集団に分かれていったのだろう。

 

この暮らし方を考えると、健康は個人の所有物ではなかったことが分かる。

誰かがけがをすれば、ほかの人が荷物を運ぶ。狩りに出られない人がいれば、別の役割を担う。食料が得られなければ、知っている場所や獲物の情報をほかの集団から教えてもらう。

全員がいつも元気だったとは考えにくい。

大切だったのは、一人ひとりが一度も弱らないことではなく、誰かが弱ったときにも集団として暮らしを止めないことだったのではないだろうか。

 

病気をどう考えていたのかは分からない

旧石器時代の人々も、けが、感染症、歯の痛み、出産の危険などに直面していたはずである。

しかし、日本列島では旧石器時代の人骨や生活の痕跡が限られている。特に本州などでは、この時代の人骨がほとんど見つかっておらず、どのような病気が多かったのか、けがをどのように手当てしたのかを詳しく知ることは難しい。

薬草を使っていたのか。

病気を自然現象と考えていたのか。

動けなくなった人を、どこまで集団で支えたのか。

確かなことは分からない。

だから、旧石器時代の人々を「自然の中で健康的に暮らしていた」と美しく描きすぎることもできない。

よく身体を動かしていた一方で、寒さ、飢え、けが、感染症によって命を落とす危険は大きかったはずである。

現代より健康だったのではない。

健康の意味が、現代とは違っていたのである。

 

健康とは、暮らしが途切れないことだった

旧石器時代の健康は、身体だけで成り立つものではなかった。

動ける身体がいる。

自然を読む知識がいる。

身体の弱さを補う道具がいる。

そして、弱ったときに支え合う仲間がいる。

これらが組み合わさることで、初めて次の場所へ移り、次の季節を迎えることができた。

現代では、健康は一人ひとりの身体の中にあるものとして扱われやすい。血液や臓器を調べ、異常が見つかれば、本人に食事や運動の改善を求める。

旧石器時代の健康は、もっと広い場所にあった。

身体の中だけでなく、自然との関係、道具を作る技術、人と人とのつながりの中にあったのである。

この時代の健康観を一言で表すなら、

「健康とは、仲間と共に暮らしを続けられることである」

となるだろう。

 

数万年後の私たちは、身体の状態を細かく測れるようになった。

それでも、健康になること自体が人生の目的ではない。健康でありたいのは、自分が大切にしている暮らしを続けたいからである。

そう考えると、健康の測り方は大きく変わっても、その根にある願いは、旧石器時代からそれほど変わっていないのかもしれない。

 

 

「今は我慢」が、未来を遠ざける

「将来のために、今は我慢する」

健康づくりでは、この考え方がよく見られる。

食べたいものを控え、酒を減らし、疲れていても運動する。現在の楽しみを少し手放せば、将来の病気を防げるというわけだ。

 

理屈としては正しい。

しかし、この方法では、健康づくりを続ける限り、現在の自分が費用を払い続けなければならない。

負担は今日から始まる。

一方、健康という利益を実感できるのは、ずっと先かもしれない。

この時間差を考えると、むしろ健康行動が続く方が不思議にも感じる。

 

現在と将来を奪い合わせる

経営にも、よく似た問題がある。

目先の利益だけを追えば、人材や技術が育たず、将来の競争力を失う。

反対に、将来への投資ばかりを増やせば、現在の事業が立ち行かなくなる。

 

経営学では、今ある知識や強みを生かして成果を上げることと、新しい可能性を探して将来に備えることの両立が、長く議論されてきた。

どちらか一方に偏れば、現在か将来のどちらかが弱くなる。

ただし、良い経営は、現在と将来に資源をうまく配分するだけではない。

商品の販売は、今期の売上を生むと同時に、顧客との関係や市場への理解を深める。社員も、目の前の仕事を進めながら、新しい知識や能力を身につける。

同じ活動が、現在の利益と将来の資産を生んでいる。

 

経営の言葉を借りれば、将来価値を得るために現在利益を削り続けるのではなく、現在利益を生む活動の中に、将来価値が蓄積される構造をつくっているのである。

 

「現在の利益」は快楽ではない

健康でも、同じことができないだろうか。現在の生活に価値を生みながら、将来の健康も育てるようなことを。

この問いを考えるには、まず健康における「現在の利益」とは何かを整理する必要がある。

現在の利益というと、食べたいものを食べる、酒を飲む、楽をするといった目先の快楽を想像しやすい。しかし、人が現在の生活から得ている価値は、それだけではない。

 

ここで参考になるのが、ウェルビーイング研究である。ウェルビーイング研究では、人がよく生きている状態を、単なる幸福感の高さだけでは捉えない。

心理学者のキャロル・リフは、人がよりよく生きている状態を、自律性、他者との良好な関係、成長、人生の目的、自己受容、生活環境を整える力という六つの側面から捉えた。気分がよいかだけでなく、自分の力を生かして生きられているかを問う考え方である。

 

この視点に立つと、会食から得ている価値も、料理や酒の楽しさだけではないことが分かる。人との関係が深まる。新しい考えに触れる。仕事上の役割を果たす。そうした価値が含まれているかもしれない。

健康のために会食をすべて断てば、検査数値は改善する可能性がある。しかし、それまで会食が支えていた関係や役割まで失えば、現在の生活全体がよくなったとは言い切れない。

健康は改善しても、ウェルビーイングの別の部分が損なわれるからである。

 

今日がよければ十分なのか

だからといって、現在の生活が満たされていれば、それでよいわけでもない。

OECDは、ウェルビーイングを現在の幸福感だけで捉えていない。

現在の暮らしを、所得、仕事、健康、知識、社会的なつながりなど11の領域から捉え、さらに人、社会、経済、自然という4種類の資源が将来のウェルビーイングを支えると整理している。

 

ここで重要なのは、「今日の暮らしがよいか」と「その暮らしを将来も支えられるか」が分けられている点である。

現在の人間関係を大切にするあまり、健康を損ない続ければ、やがて人と会う体力や働く力を失うかもしれない。反対に、将来の健康だけを守ろうとして現在の関係や役割を手放せば、健康になった先の生活が貧しくなる。

どちらも、一方を得るために、もう一方を取り崩している。

 

現在を犠牲にして将来を守るのでも、将来を犠牲にして現在を楽しむのでもない。

現在の生活に価値を生みながら、将来の生活を支える資源も育てる必要がある。

 

バランスではなく、重なりをつくる

これは、現在と将来のバランスを取る話ではない。

バランスという言葉には、限られた時間や労力を二つに分ける発想がある。今を少し我慢して未来に回す。あるいは、未来への備えを少し減らして今を楽しむ。

配分を変えているだけなので、現在と将来が奪い合う構造は変わらない。

必要なのは、両者が重なる行動を増やすことである。

たとえば、歩くことが病気の予防だけでなく、人と話す時間や考えを整理する時間にもなる。食生活の見直しが制限ではなく、食への理解や生活を整える手応えにつながる。

そこでは、健康行動が将来のためだけの費用ではなく、現在の生活にも価値を返している。

目の前の価値を感じられるから、その行動はもう一度繰り返そうとする。繰り返されるから、健康や能力という将来の資源も育っていく。

 

将来価値は、現在の犠牲からしか生まれないものではない。

むしろ、今日の生活にも価値を生む行動だからこそ続き、その積み重ねが未来に残る。

「今は我慢」が未来をつくるのではない。

今日と明日の両方に価値を生む行動が、未来を近づけるのである。

「術」は「道」より下なのか

剣術と剣道は、何が違うのだろう。

一般には、剣術は相手に勝つための技術であり、剣道はその修練を通じて人格を磨くものだと説明される。

術は技術。道は生き方。

 

こう並べると、「術」よりも「道」の方が一段上にあるように見える。

技術だけを追う段階を卒業し、精神性を備えたものが道である。

そんな印象を受ける。

しかし、本当にそうだろうか。

 

剣術には、目的がはっきりしている。

相手の攻撃を防ぎ、自分の攻撃を届かせる。

実際に使えるか、勝てるかという厳しい基準から逃げることはできない。

うまくいかなかったときに、「よい経験になった」と言って終わることは難しい。

役に立たなければ、術としては不十分である。

 

一方、剣道では、勝敗だけがすべてではない。礼を重んじ、心身を鍛え、相手を尊重する。

たとえ試合に負けても、その過程に学びがあれば、修練には意味がある。

これは、剣の価値を広げたともいえる。

戦いの道具だったものを、人間を育てるための手段に変えたからである。

 

ただし、「道」という言葉には危うさもある。

結果が出なかったときに、「大切なのは勝つことではない」と言えるからだ。

仕事でも同じような場面がある。

売上が伸びなくても、「組織として成長できた」と言う。施策が失敗しても、「多くの学びが得られた」とまとめる。

もちろん、成長や学びには価値がある。だが、それが結果を出せなかったことから目をそらす言葉になっているなら、話は別である。

 

道は、ときに結果を曖昧にする。

では、術だけを追えばよいのかというと、そうでもない。

術は、目的を達成するための方法である。

目的を達成すれば、それで終わる。

相手に勝てればよい。商品が売れればよい。

数字が上がればよい。

その力を何のために使うのか。

どのような人間として使うのか。そこまでは、術だけでは決められない。

 

優れた営業術を持っていても、それを相手のために使う人もいれば、不要な商品を売りつけるために使う人もいる。

技術は、使う人の目的までは選んでくれない。

 

だから、術と道は、初級と上級の関係ではないのだと思う。

術は、現実に働きかける力である。

道は、その力を使う自分の在り方を問い続けることである。

術のない道は、精神論になる。

道のない術は、目的を選ばない道具になる。

 

剣道は、剣術を捨てて生まれたものではない。剣を扱う技術を磨きながら、その技術を通じて自分を律する。だからこそ、「剣の道」なのである。

 

これは、健康にも当てはまる。

世の中には、健康になるための術があふれている。

糖質を減らす、毎日歩く、早く寝る、記録をつける。

 

どれも方法としては間違っていない。

しかし、健康術をいくつ知っていても、それだけでは生活は変わらない。

なぜ健康でいたいのか。健康になった先で何をしたいのか。

自分にとって、健康とはどのような人生を支えるものなのか。

そこまで考えたとき、健康術は、健康の道に変わり始める。

 

ただし、道を語るだけで歩かなければ、体は変わらない。

結局、必要なのは、術から道へ進むことではない。

術を磨きながら、道を見失わないことである。

方法だけでも足りない。

理念だけでも足りない。

現実を変える力と、その力をどこへ向けるのかを考えること。

その両方がそろって、初めて修練は続いていく。