日記というか、ひとり言。

散歩をしていて、スポーツ見ていて、映画を見ていて、漫画を読んでいて思ったこと。

挨拶という「クラ交易」

下記は、『日本人がなにげなく使う言葉に感激 フランス人が「心を奪われた日本語」とは』というネット記事からの引用です。

 

オレリアンさんが、自身のインスタグラムアカウント(bebechan_france)で「フランス人が心を奪われた日本語」として紹介したのは、「いってきます」でした。

最初は、「単純に『家を出るね』という意味だと思っていました」というオレリアンさん。日本の歴史や文化を理解するなかで、この言葉には「『必ず帰ってきます』という意味が込められている」と知りました。

オレリアンさんは、「いってきます」について、愛する人へ「無事に帰ってきます」という“誓いの言葉”として使われると説明。

また、「いってきます」と言われたら「いってらっしゃい」と答えることで、相手の誓いを受け入れて無事に帰ってくることを祈る意味があると語ります。

 


「いってきます」「行ってらっしゃい」、そして「ただいま」「おかえり」。

確かに、こういった言葉を外国語訳しようとすると、適切な言葉が出てこないことが多いようです。

「ただいま」「おかえり」の英語訳を調べると、「I’m home」「Welcome back」と表現されますが、実際には日常的には使われないようです。

フランス人の方も感激するあたりから、フランスでも日常的ではないようで、日本人独特のコミュニケーションなのかもしれません。

 

「なにげなく使う」と表現されていますが、まさにその通り。

フランス人の方が思うほど、私たち日本人は深い考えを持ってのやり取りを行っていません。

ただ、このやり取りがないことで、相手の感情や状況を不安に感じたり、自分自身の感情を害してしまうことに心当たりはないでしょうか。

そして、一人暮らしが長くなると、このやり取りに“あたたかみ”を感じる人もいるかもしれません。


そして、この記事を読んで、私が思い出したのは大学の文化人類学の授業、「クラ交易」でした。

「クラ」自体が交易という意味なので表現としてはおかしいかもしれませんが、何となくこの表現の方がわかりやすいですね。

「チゲ鍋」みたいに。

 

あ、その「クラ交易」を思い出しました。

「クラ交易」はパプア・ニューギニアにある地域で行われてきた儀礼的な交易の仕組みです。

島民は、他の島々に贈り物を送り合うパートナーがいて、赤い貝の首飾りと白い貝の腕輪を交換します。

島民は隣の島から贈り物を受け取ると、しばらく経った後に反対側の隣の島にそれを渡します。

結果的にこれらの貝の装飾品は島々を巡回し、自分の手元に戻てきます。

ちなみに、これは受け取る側が相手の島に取りに行きます。

 

贈り物自体に経済的な価値は無いうようです。

そして大事なことは、贈り物を受け取る側は遭難するリスクを冒してまで舟で隣の島まで渡り、贈り物を渡す側は歓待の儀礼に莫大な出費をかけることです。

経済的メリットが誰にも何もない文化ですが、だからこそ関係性が強化され、島間のネットワークが維持されているというのです。

 


ちょっと話が大げさになりましたが、もしかしたら「いってきます」「行ってらっしゃい」、「ただいま」「おかえり」もこういった意味があるのかな。

意識する、しないかは別にして。

と感じます。

 

もちろん海外でも、外で会った時の挨拶はあります。

(アジアでは、「ご飯食べた?」が挨拶代わりの常套句となっていることが面白いですし、そして日本だけにはそれがないことも面白いことです。)

 

一方で、今回取り上げた「いってきます」「行ってらっしゃい」、「ただいま」「おかえり」は、どちらかというと家庭などの普段いるコミュニティ内で良く使われる言葉です。

普段当たり前にある家庭だからこそ、こういった言葉のクラ交易が大事になってくるのかな、なんて思います。

 


ちなみに、自分は転職先で外出するときに「行ってまいります」と言ったら、オフィス全体から笑われましたね。
「挨拶だけは育ちが良い」と。

「生徒」としての経験が、「教師」の質を高める

先日、セブ島の英語留学というものを短期体験してきました。

島ごとに言語が異なるフィリピンでは、共通語に英語を採用。

国民ほぼ全員が英語を話せる環境にあるため、「英語を勉強しに行くなら、欧米に行くよりフィリピンの方が近いし、圧倒的に安いよね」と、韓国人が始めたのが、フィリピン英語留学とのことです。

現在では日本人運営者も多く、オンライン英語学習サービスの先生はフィリピン人が7割を占めているのではないでしょうか。

 

今回は、滞在5日間、授業日数6時間×3日間という超ショートステイで特別に組んでもらった短期体験でしたが、行って良かったと心から思えます。

 

▼お世話になってクロスロードさん

crossxroad.com

 

理由としては、まず良い気分転換になったこと。

授業はマンツーマンですが、林間学校のような共同生活だったので、普段の生活とは違った日常も楽しさの1つでした。

 

それに、休日は離島で楽しむこともできましたしね。

電気がなかったけど。。。

 

2つ目の理由は、単純に英語力向上につながったこと。

大学受験以来ほとんど学んでこなかった英語。。。
(多くの社会人の方、同じじゃないですか?)

そもそも1日6時間の英語の学習は人生初でしたが、発音の基礎から学び直すことができました。

 

これをきっかけに英語学習は続けていますが、「th」「v」「f」の発音を繰り返し指導(注意?)していただいたことは、貴重でした。

自分の発音がなぜ通じないか、なぜ相手の英語が理解できないかが、よくわかりました。

 

3つ目は、相手の視点に立つ機会を得られたこと。

ここ数年の人生では、社会でも家庭でも「教える」立場がほとんどだった自分ですが、今回ばかりは「教わる」側。

普段、職場では自分では慣れた業務を教えるときに「なんでこんな簡単なことが覚えられないんだ」。

小学生の子供に対して大人げなく「なんでこんな簡単なことが理解できないんだ」。

そんなことを思って(時には口走って)しまうことがありましたが、今回の英語留学で反省しました。

 

はい、「こんな簡単なこと」ができないんです、難しいんです。

 

“「th」「v」「f」の発音を繰り返し指導”と書きましたが何度も同じことを注意されました。

それこそ、「せっかくフィリピンに来たのに、ずーっと「v」の口の動きだけで終わるのでは?」と思うくらい。

自分でもできていないことがわかっているのですが、それでも舌が回らない。

そして、うっかり忘れてしまう。

 

「なんでできないんだ?」

いやそんなこと、こっちが教えて欲しいですよ、先生。。。

という感覚です。

 

仕事も勉強もそうですが、慣れた仕事、わかっていることっていうのは、自転車に乗るような感覚なんですね。

言葉より体で理解しているような。

でも、初めて学ぶ側は、まだその境地に至っていないのは当たり前のこと。

先生や上司が簡単そうにやっていることが、うまくできなくて歯がゆい思いをしているんですね。

当たり前なのですが、教える立場の人は、意外とこのことが理解できていない。

自分も同じ経験をしたはずなのに。

むしろ、無意識にもマウントを取るための材料にしてしまっている。

 


今回の英語留学で感じたことは、「教師」は定期的に「生徒」としての経験が必要ではないかということです。

大学教師にはサバティカル休暇なるものがありましたが、小・中・高校の先生にはそういう機会はあるんですかね?

教師不足の昨今ですが、ぜひその機会を作った方が良いと思います。

 

もちろん余暇としても新しい気づき燃えますし、学びたい研究をしても良いでしょう。

ただその時間を「生徒」になる機会としてもあてて欲しいです。

それによって、新しい気づきを得る楽しさを再認識できます。

また、学びのテーマが「教育」「学習」であれば、教え方、教える内容が進化します。

そして、「生徒」の立場になることで教えることに寛容になれることが、最も大事だと思います。


これは企業の管理職の方についても同様です。

リスキリングという言葉が少し前に声高にされていましたが、今はどうでしょう?

このリスキリングの価値は、新しい知識の習得だけではありません。

まさに「教わる」という経験自体が、管理職としてのレベルアップにつながります。

小学生の通知表って、わかりにくい。

昨年の話です。

自分の娘の通知表を見て思うことがあり、小学校の校長先生宛に、こんなメールを送りました。

(本論だけ抜粋したものになります。)

 

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さて、この度は1点お願いがあって、連絡いたしました。


通知表を拝見し、コメント欄から学校での娘の様子を知ることができました。

ただ、評価項目の内容が理解しにくいと感じました。

自分の頃は、両親と通知表を見ながら、何を伸ばすか、何を改善するかを話していました。


しかし、現在の評価項目は小学校1年生ではわかりにくい表現になっており、

また1項目で複数の観点が含まれており、大人でも具体的に何を改善すべきかが判断しづらいものでした。


●●小学校単体で評価項目を設定してるわけではなく、簡単なことではないと思いますが、ぜひ家庭教育にもつながることを見越した通知表への変更を、働きかけていただけますと幸いです。

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こちら1年前に送ったもので、姪と通知表を見て、このことを思い出しました。

 

非常に傲慢なお願いとも感じますが、本当にそう思ったんですよね。

加えて、この評価項目では、先生も評点をつけづらいだろうなと。

そして、この評価項目では、当たり障りのないことしか感じられないなと。

結果的に、その科目のテストの点数で、良い評点をつけざるを得ないのですが、それなら中学校と同じような評価でも良いんですよね。


メール本文で「家庭教育にもつながることを見越した通知表」と書きましたが、今の通知表では、それれを見ただけで、家庭で何をしたら良いかわからないものになっています。

企業の評価項目でも、

・評価項目が多すぎて、結果的にみんな平均点になる

・上司も評価項目を理解できないから、とりあえず平均点をつける

・評価を見た方も、最終的な評点(=賃金?)しか見ていない。

みたいなことが往々にしてあります。

 

まぁ、育成者と評価者がほぼ同じ、企業であればそれで良いのかもしれません。
日常のご指導があるので。

しかし、家庭教育も重要度の高い小学生が対象とすると、今の通知表では不十分に感じます。

また、このような意見が毎年評定している教師の方から上がらないとしたら、その質も問題と言わざるを得ないです。

 

 

あ、1年前に通知表を見て以来、私は通知表を見なくなりました。
子どもにとってはそれはそれで、良かったのかな。

社会人になると、文化圏まで変わってしまう。

本当に小さなことですが、感動したことがありました。


私は大学時代にアルティメットというフリスビーを使ったスポーツをやっていました。

先日、その学生チームの4年生卒業のパーティーに、OBOG代表として参加してきました。

いわゆる「追いコン」というやつですね。


2時間半の中で思い出を振り返り、卒業者からのメッセージがあり、プレゼントがあり、顧問からの激励があり。

その内容だけでも感動したのですが、さらに感動したのは、パーティーの終了後でした。


ビュッフェ形式の着席パーティーでしたが、学生達が各テーブルごとにお皿をまとめ始めたんです。


書いてしまうと、本当に小さなこと、当たり前のことなのですが。。。

これ皆さんやります?


高い会費を払い、飲み放題でお酒も入った状態、早く二次会にも行きたい。

むしろ社会人の方がこんなことして店を出る人はほとんどいないのではないでしょうか。


「そんなことはやって当たり前」という考えの一方で、「やる必要はない」「やらなくても良いかな」と考える方が多いのではないでしょうか。

特に社会人の方は。

「お金を払っているんだから」

「会場への嫌味になる」

「油物とそれ以外の皿が混ざるとお店の人が大変」

と言った理由から。


もしくは、「本当はやったほうが良いと思うが、他の人がやっていない中でやりにくい」という多元的無知状態もあるでしょう。

合宿などの共同生活をともにした学生だからこそ、当たり前のことなのかもしれません。

ただ、学生では当たり前だったマナーが社会人になると薄れていくことに、自問の余地も生まれます。


学生を卒業すると、その延長線上に社会人があると思っていました。

ところが実際は、学生から社会人になることで、集団が変わり、規範までもが変わるようです。

それこそ生まれ育った国や文化が違うほどに。

 

サッカーの国際試合で、日本人サポーターの試合終了後のゴミ拾いが注目されることがあります。

その際のインタビューで、日本人サポーターからは「当たり前」という言葉が発せられました。

掃除をすることが当たり前なのではなく、自分のゴミは自分で持ち帰ることは当たり前であること。

そして、使う前夜使った後はきれいにという考え方があること。

さらに、周りの人がやっていたら、同じようにすることは当たり前であること。

これらの考えのもと、ゴミ拾いを個人ではなく、集団で行っていたことに世界が注目し、「賞賛の嵐」と報道されたり、はたまた「異様」と映っていたのかもしれません。


ただ面白いのは、もう何年も前からこの日本人の行動は見られ、「賞賛の嵐」は吹いているのに、他国に広がってはいないこと。

「日本人は素晴らしい」という言葉の真意は「日本人だけがやっていること」であり、賞賛はしても共感はしていなかったのでしょう。


さらには報道当時から、「清掃員の仕事を取るな」「ただのアピール」「ゴミを移動しただけ」というった批判的な声も有りました。

賞賛している人の中にも、アライグマを見ている気持ちの人もいたかもしれません。

実際に、ゴミ拾いをしたサポーターの人は気にもしないでしょうが、これらの批判については意味が解らないことだと思います。


これこそ、生まれ育った国・文化の違いなんだなと。

何が良い、悪いという問題ではなく。


話が飛んでしまいましたが、「サポーターのゴミ広い」と「学生の皿まとめ」は、やっていることは同じ行為だと思います。

少し言葉を変えると「観戦後のゴミ拾い」と「飲み会後の皿まとめ」。

ほとんど同じはずなのに、「観戦後のゴミ拾い」は日本人として当たり前なのに、「飲み会後の皿まとめ」は当たり前ではなくなっている気がします。


1つには、公共施設か云々かということがあるでしょう。

(実際にはスタジアムは、鋭利施設ですが)

もう1つには、海外だからという視点もありますが、どうやらJリーグでもスタジアムにゴミはほとんど落ちていないようです。


そして、先述した通り社会人になると、当たり前が変わってくるというのも、あり得る話ではないでしょうか。

学生の時は、みんなお皿をまとめているから、それに倣ってまとめる。

社会人になると、みんな何もせずに帰るから、同じくそのままにする。

 

どちらが正解かではなく、集団が変わることで「多元的無知」の範囲が変わってくるんですね。

今まで同じ文化圏で育ってきたはずなのに、社会人になると急にマナーが変わる。

そして、思いのほかすんなりとその文化に染まっていく。

こんなところが日本人らしさなのかもしれません。

≪逆≫ 30人の壁

「30人の壁」。

設立以後、順調な人員拡大をしている会社でも、従業員数30人で停滞が見られるというものです。

採用を進めていても、入社者と退職者の数がほぼ同じで、結果として停滞が起きてしまいます。

つまり、30人のタイミングで、働きづらさを感じ始める人が多いというものです。

 

この理由の1つは、事業的な停滞はもちろんあるでしょう。

しかし、人数=組織的な話なので、組織面に絞って書きたいと思います。

組織的の視点では、3つ背景があります。

 

1つ目に経営者のマネジメントに限界が来るため。

1人で見れるマネジメントの限界が30人だということです。

経営者が、自分の考えをメンバーが理解するスピードが遅い、もしくは理解度が浅いと感じるようになります。

そこで生まれる苛立ちは、もちろん会社全体の雰囲気に淀みを生みます。

また一方で、経営者からの目が遠くなることで、評価されていないと思うメンバーが出てくることにもつながります。

 

2つ目に創業メンバーと中途採用者との温度差が生まれること。

創業メンバーは、立ち上げ時の苦労などを共にし結束が強いケースが多いでしょう。

経営者の考え方やビジョンなども理解しています。

一方で人数が30人ほどになると、あらたに採用した中途採用者も存在するようになります。

中途採用者は、前職での経験などを基準にものごとを見るため、創業メンバーとの間に温度差が生じがちになります。

 

 

これは余計な感覚論ですが、「ベンチャーだから」という中での朝令暮改があると思います。

これを「スピード感」ととらえるのが創業メンバー。
ところが、中途メンバーは「バタバタ感」と感じていることが多いのではないでしょうか。

考え方の違いがやがて亀裂に変ってしまいます。

 

 

そして、その対応として会社が組織化するようになり、得意ではないマネジメント業務を担わされるプレイヤーが出てくるようになります。

マネジメントを担う本人もやりづらさを感じ、不得意なマネジメント化にあるプレイヤーもやりづらさを感じ、結果的には退職という形になります。

 

組織化することで、新たな部署が生まれます。

特に間接部門の強化と管理職の採用が。

そうすると、中途採用者はまた増えますし、今までになかった社内ルール等で温度差もさらに増えることでしょう。

一度「30人の壁」を越えたと思っても、バタバタと人が辞めていくということはよく聞く話です。


そして、「30人の壁」自体もよく聞く話だと思います。

本当に前置きが長くなりましたが、事業縮小ん位置いては「逆・30人の壁」があることを注意しなければなりません。

 

リストラクチャリングの段階で人数が減ってきたとき、30人まで来ると意図せず人が次々にやめていくという現象が。

 

事業的な理由から、乗っている船に危機感を持って転職していく人もいることが1番です。

ただこれも、組織的な理由について言及したいと思います。

と言っても、「30人の壁」の3つの理由の完全な裏返しです。

 

まず、従業員が、経営者から見られぎると感じてしまうこと。

30人以下になるとこれまで部下の部下だったメンバーの仕事まで、経営者が見えるようになります。

元々は自分がマネジメントしていた人数範囲内なので。

 

 

そうすると、上司が2人いるように感じますし、上司と経営者の指示が少し違うだけで、感じてしまうんですよね。

息苦しさを。

経営者としては“良かれと思って”やっている声掛けも、愛想笑いで返されてしまうこともあります。

 

 

そして、新しい人が入ってこないため、温度差が生まれることはないのですが、ぬるま湯と感じる人が出てきます。

「新しい刺激がない」「ずっとこの人と仕事をしていくのだろうか」「ずっとこの仕事なのだろうか」と。


これらによって退職速度が上がると、これまでの組織体制が維持できなくなり、マネジメント職がダブついてきます。
また、間接部門の仕事の必要性が薄れ始め、さらなるリストラクチャリングに走り始めます。

 


つまり、経営者が事業の再設計を考えたときに、この規模であれば利益を出せると考えたにもかかわらず、組織の縮小に歯止めがかからなくなるのです。

30人が、気づいたら10人になっていたりします。

【傍聴】区議会で驚いたことベスト3

タイミングが合ったので、区議会(予算特別委員会)の傍聴に行ってきました。

驚きました。

いや、がっかりしました。

「ベスト3」と書きましたが、順番は順不同だと考えてください。


【1】傍聴者は、傍観者。

 

まず、「どなたでも傍聴できます」と親切に書かれているものの、議案がわからないので、何について採決を取っているかわからない。

「第5号議案について、賛成の方起立をお願いします。」「賛成多数で可決します。」

それだけで、傍聴者はわかるか!

 

他の報告も、報告資料に書かれていることを早口で話すだけなので、その資料がない傍聴者には本当にわかりづらい。

その報告に対しても、「質疑のある方?」という委員長の促しはあるものの、0.5秒後には「ないようなので、、、」と流れ作業のように進んで行きます。

 

さらに、傍聴席と議員席の微妙な距離感とも相まって、ほんとうに聞こえづらい。

人によっては、わざと、聞こえないようにしているのかと思うほど。

 

「どなたでも傍聴できます」というメッセージは、区民が政策(とその成り立ち)を理解する場があると思っていましたが、違いました。

「どなたでも傍聴できます」=「暇な人用に、座れる場所がありますよ。」ということでした。

 


【2】報告者の話が聞き取りにくい。

 

伝えることが目的ではなく、決定事項を報告するだけ(事前に読めば済むこと)なので、聞きやすさは関係ないんです。

声の大きさ、スピード、抑揚、目線。

小学生の音読のレベル以下!

これでは、議員で寝る人が出ることも理解できます。

 

これが、さらに傍聴者からもわかりづらくさせている原因の1つでもあることは、言わずもがな。

 

7人くらいが報告したのかな?

区長の挨拶以外は、手元から目を上げて話す人が一人もいないことは、一番の驚きでした。

弁論が立つ人が政治家になっているはずなのに。。。

 

さらに、こんな報告も。

「●●の活用について善処していただきたいという進言があり、検討するという回答がありました。」

 

え? 何それ?

「何も進みませんよ」ということを言いたいのだろうか?

早口になるくらいなら、この段階でこんなこと口頭で報告しなくてもいいのに。

 

もしかしたら、わかりにくい報告が良いという世界なのかもしれないですね。

当選するまでは目立つことが重要で、当選してからは目立たない(=波を立てない)ことが大事なお仕事なのかもしれません。

 


【3】報告者が発言するまでに、儀式的な作法がある。

 

分科会の代表者が報告するまでの流れです。

①分科会ごとに報告者の名前を委員長が呼ぶ

②報告者は自席で、挙手をする

③演台席に進む

④演台席の前で議長に会釈

⑤演台席の前で他の議員に会釈

⑥演台席に座る

⑦報告者の名前を委員長が呼ぶ

⑧報告者は自席で、挙手し、起立する。

⑨報告する

この⑥⑦⑧は何のためにあるのだろう。

お焼香を思い出しました。


このように、「今までがそうだったから」という理由で同じことを踏襲する会議・組織からは、今までを変える政策が出てくるとは、到底思えません。

 

全ては、目的意識の欠如。

これに尽きます。

 

傍聴者席を作るのは何のためか?

報告するのは何のためか?

その作法は何のためにあるのか?

 

今本当に必要なものは何か?

そのために自分たちが、何ができるか?

そして、何をやらないか?(やめるか?)

 

それを考える仕事をする人が集まっている場であってほしいです。

「成長」「裁量権」という言葉の背景

中小企業の新卒採用活動も、内定出し期間が第二次ピークに達する頃でしょうか。

ここから大手企業の本番という学生も多いと思います。

 

ここで、採用・就職活動で多く出てくる「成長」「裁量権」という言葉について触れてみます。

 

「うちに来たら成長できます」

「弊社は若い人でも裁量権を持って取り組んでもらいます」

という言葉。

2005年~2007年くらいのベンチャー・中小企業の採用活動において、常套句となっていたものですが、一時、影を潜めていました。

それは出世を望む20代が少なくなっていたことに関係します。

 

しかし最近になって、これらの言葉が、再び活況してきたように感じます。
それは「キャリア安全性」という言葉の生まれとともに。

これは、出世はしたいとは思わないけど、会社が傾いたり、自分と会社が合わないと感じたときに、どこでもやっていける力は欲しいという考えが背景です。

また、実力さえつければ、1社で出世するよりも、転職した方が年収を上げやすいという時代背景もあるでしょう。

そんな中で、「成長」できる環境を求め、「成長」のために「裁量権」を持たせてくれる会社を求める学生が増えてきている傾向があります。

 

見方を変えると、「会社に頼らない自分にならないために、会社を頼る」という都合の良い考えですが、これが今のキャリア感なんですよね。

「転職のために入社する」というものが。

 

もちろん、仕事を通じて成長したいという気持ちは、大事なものです。

その前向きさは、組織にとっても良い影響を与えます。

(露骨すぎなければ。)

 

ただ、就職活動をしている学生の方に覚えておいて欲しいのが、言葉には「背景」があるということ。

「背景」とは「真実」とも言い変えられるし、「裏」とも言えるものでもあること。

 

・10の仕事で1しか成長できない人と、20成長できる人がいる。

・スポーツと同じで、言われたことをやっているだけでは成長も評価もない。

・スポーツと同じで、地味なことへの取り組み方で、成長と評価がある。

・成長実感を感じる時期は人それぞれで、仕事内容によっても変わる。

・成長できるかは、会社よりも、最初の上司の影響が大きいい。

・人脈はバカにできない、コネを作る力も可愛気も能力。

・成長できた人だけが、裁量権をもらえる。

裁量権とは業務範囲(=チャンス)のこと、決定権ではない。

・社内の基準が、社会の共通認識ではない。

・「裁量権を持って」=「自分で考える範囲が多い」=「仕組み・標準化ができていない」

などなど。

社会人の方なら誰もが、もっと多くの「真実」と「裏」を教えてくれるでしょう。


特に言及したいのが、「裁量権を持って」=「自分で考える範囲が多い」=「仕組み・標準化ができていない」という点。

これは、すごく残酷だなと思うことがあります。

(ここからの話は、偏見と例外はありますが、傾向だと思って読んでください。)

 

キャリア安全性の視点に立って、話します。

仕組みがない中で、一生懸命頑張って成長できるのはせいぜい1,2年です。

そこからはやり方を変えるか、仕組み・標準化していく提案力が大事です。

当たり前のように感じるかもしれませんが、意外とその提案ができる人はほんの一握りです。

 

なぜか。

2年やったら3年。

3年やると、もう既存の仕事のやり方から脱却しにくくなります。

今のやり方が正解なんだと固定概念が生まれ、5年もすると自分と同じやり方でやらないと評価しない上司・先輩になっているためです。

そんな上司・先輩が、次々に固定概念を持つ人材を育てます。

若手人材は、裁量権をもらっても、決定権はないので。

途中で「このやり方は非効率だな」「こっちの仕事をした方がリターンが多いのでは?」と思え、提案力(=実績×説得力+可愛気)を持った一握りの人が、このスパイラルから外れていくことができます。

つまり、若いうちから裁量権を持たせてくれる会社が、キャリア安全性の高い会社ということではないんですね。

残酷なのは、これだけではありません。

ここまでの話を、市場価値の高い順番で見ると

①仕組みを作る人

②仕組みの無いで会社で仕事ができる人

③仕組みの無いで会社で仕事ができない人

というあまりにも面白みのない形になりますが、実はこの①と②の間にもう1階層あります。

それは「仕組みを知っている人」です。

キャリア安全性の視点に立っての話なので、「仕組みの無いで会社で仕事ができる人」「仕組みを知っている人」が転職をしたときのことをイメージします。

「仕組みの無いで会社で仕事ができる人」が他の会社に転職をすると、ある程度は評価されるかもしれませんが、会社の仕組みを変えるまでには行きつきません。

むしろ、今までの地道なスタイルがあっていただけで、その仕組み(システム)を使いこなすことができず、今までのような成果を出せないことがあります。

 

一方、「仕組みを知っている人」が「仕組みの有る会社」に転職したら、大きな変化はないかもしれません。

しかし、仕組みの使い方は知っています。

ただ、もし「仕組みの無い会社」に転職すると、「こんなやり方がありますよ」「こういう風にしたら効率化できます」と、その会社にとっては文明開化のようなインパクトのある提案ができるかもしれません。

だいたい仕組化された会社というのは、他のシステム導入や標準化がされているので、その知見を小出しにすると、毎年評価が上がります。

ネタ切れしたころには、転職をします。

そうなった時には「仕組みを知っている人」は、職務経歴書上で「仕組みを作る人」にランクアップしています。


これが私が、市場価値の高い順番が下記になると思う理由です。

①仕組みを作る人

②仕組みを知っている人

③仕組みの無いで会社で仕事ができる人

④仕組みの無いで会社で仕事ができない人

 

そして、これが「残酷」と書いた理由です。

仕事ができる人より、知っているだけの人の方が評価されることがあるという。


だからこそ、会社選びをするときに、「成長」「裁量権」という言葉の「真実」

「裏」を考えて欲しいです。

求職者売り手市場の今だからこそ。

 

 

あ、あと「来年4月に正式入社してから成長に向かって頑張るぞ」と思う人は、「成長」「裁量権」を謳う会社にはいかない方がいいですよ!