「LGBT」という言葉が一般的に知られれるようになってきました。
それによって、かつてより社会の理解度も増してきたかのように見えます。
でも実際は、認知度が増しているだけで、理解度は変わっていないのかもしれません。
「LGBT」という言葉が知られれば知られるほど、その言葉だけが単独化し、セクシャルマイノリティの人たち一括りにしてしまっていると感じます。
レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー。
今ではパンセクシャルという方々も。
呼び名が異なるのは、それぞれの価値観に明確な違いがあるためで、そうなると悩みもそれぞれ違ってきます。
以前「実際の「悩み」と非当事者の想像にはギャップがある」という記事を書きましたが、当事者の中での悩みも存在するようです。
例えば、バイセクシャルであることは、疎外感を感じるといいます。
異性愛者から「両方好きって理解できない」と思われるだけでなく、
同性愛者から「異性を愛せるなら“仲間”じゃない」と言われる(思われていると感じる)ことがあるそうです。
差別や格差は「同質性」が高いからこそ生まれる。
セルジュ・モスコヴィッシ(ルーマニアの社会学者)が唱えたことを感じる状況です。
似たようなことを民族でも感じます。
朝鮮系中国人という人たちをご存じでしょうか。
「朝鮮族」と呼ばれていことの方が一般的かもしれません。
日本が朝鮮半島および中国東北部を占領していた時期に、朝鮮半島から中国へ移住してきた人たちとその子孫です。
韓国語・中国語の両方への理解があり、日本語が使える祖父母の影響からか、日本に移住してくる方も多くいます。
私も知り合いがいるのですが、とても向上心の高い民族です。
朝鮮半島から中国へ移住ということで、「文化は朝鮮、国籍は中国」という状況です。
以前、知り合いの一人から、「なぜ日本に来たのか?」と聞きました。
すると、「中国にいるときは韓国人扱いされ、韓国に行ってみると、中国人扱いされた。それによって差別的なこともあった。思い切って日本に来てみたら、端笑めて頑張ったことが評価されたと感じた」との答えが。
もちろん、日本でも差別はあります。
それでも、そこには割り切れるものがあるそうです。
一方で朝鮮、中国は育った背景でもあり、同じことを感じるからこそ、違いを意識してしまう、意識されてしまうことがあるようです。
兄弟関係でも、近いことを感じるかもしれません。
性差の話も民族の話も、「同質性」が高いからこそ生まれる差別や格差があること。
そして、非当事者の人は、何となく一括りにしてしまうと、見えなくなることが生まれてくる。
そう感じます。