日記というか、ひとり言。

散歩をしていて、スポーツ見ていて、映画を見ていて、漫画を読んでいて思ったこと。

「悪気」を「配慮」に置き換えると矢印が変わる

●●ハラスメントという言葉の種類が、年々増殖しています。

「セクハラ(セクシャルハラスメント)」。

パワハラパワーハラスメント)」。

モラハラモラルハラスメント)」。

「マタハラ(マタニティハラスメント)」。

といった言葉はもう一般的なものです。

 

「あの人はセ・リーグ」「あの人はパ・リーグ」なんて話を、野球を知らなさそうな女性が話しているのを見ると、すでにセクハラ、パワハラは、面白コンテンツ化してきている気もします。

 

この他、近年聞くようになってきたのは、

お酒を強要する「アルハラ(アルコールハラスメント)」。

体臭・口臭がキツイという「スメハラ(スメルハラスメント)」。

カラオケを強要する「カラハラ(カラオケハラスメント)」。

血液型で判断・差別をする「ブラハラ(ブラッドハラスメント)」。

 

さらには、鬼滅の刃の面白さを押し付けてくる「キメハラ」などとう言葉さえ出てきた時期もありました。

 

このような風潮の中で、それは言い過ぎだ。

と、「これらのハラスメントの訴え自体がハラスメント」だという意見も生まれました。

「ハラハラ(ハラスメント・ハラスメント)」という言葉で。

 

上記のアルハラ以降の例なんかは、訴えられた側からすると「悪気はなかったのに…」という気持ちの方が大きいのではないでしょうか。

「お酒を強要」ではなく、「お酒をおすすめ」くらいの感覚だったこともあるでしょう。

 

たしかに、言いすぎな面もあるし、ネーミングされることで、一般化されてしまう傾向もあるでしょう。

 

でも、やっぱり相手の捉え方次第なんだと、私は思います。

 

「悪気はなかった」と思った時に、「悪気」という言葉を「配慮」という言葉に置き換えてみてください。

 

意味の違う言葉ですが、自然と矢印が自分に向いて来るはずです。

「悪気はなかった。。。許して」

「配慮がなかった。。。申し訳ない」

 


気を付けて欲しいのが、善意=配慮ではないということ。

むしろ、善意を言い変えた「良かれと思って」は、「悪気はなかった」とほぼ同意語になります。

要するに、「良かれと思って」「悪気はなかった」も自分目線なんですよね。
そこに、相手の気持ちを考える「配慮」を持つことが大事です。

 

 

以前、学生サッカーの試合で激しいタックルをして、相手選手が退場してしまったことがありました。

タックルをした選手のコーチが、「わざとじゃないから謝らなくていいよ」と言っているのを目の当たりにして、「なんか違うな」と思ったことを思い出しました。

ゆっくり来る未来が早く来た

三菱UFJ信託銀行の新サービスのメディア発表会に中田英寿氏が参加されていました。

その中で、地方でも活躍する中田氏に、「地方の様子については?」という質問が寄せられました。

 

それに対して中田氏は下記のように答えました。

 

「地方というよりも、インターネット技術が進んできた中で、必ずこの近い未来に起こりうることが、一気に押し寄せただけだと思います。

だから、コロナによって悪くなったのではなくて、ゆっくり来るはずであろう未来が早く来たとたんに対応できなかったということなのかな。

(中略)

オンラインが発達したことによって、地方でもできるようになった時には、今度は自然の魅力、住む環境というところで人は今度今度動き始めるんじゃないかなと思います。

まあ結果、地方の魅力というのはこれから増すでしょうし、今からが大きな勝負じゃないかなと思います。」

 

私は中田氏の言葉に共感しました。

特に「ゆっくり来るはずであろう未来が早く来たとたんに対応できなかった」という部分は非常に本質的だと思います。

 


ドッグイヤー”という言葉が数年前に出ましたがが、変化スピードは年々早まっています。

さらに、新サービスや天災によって、大きく変化が加速することはこれまでにもありました。

アップルの開発力によって、CD市場が崩れ、これまでの広告モデルが激変したように。

 


「いずれ起こる変化」を「いずれ」と思わずに準備する。

これが、個人の働き方、企業の戦い方の要諦になります。

親会社からの出向社員が持つべき意識

「出向者」ついて考えました。

よくあるのは、親会社から子会社への出向です。
もちろん、ノウハウ共有のために出向している人もいるでしょうが、そうでないことも少なくないはず。

一般社員が、お客様のように出向してくることも見受けられます。

はっきり言うと、雇用調整、人件費調整のためというのもあります。

 

それぞれの、事情はあると思いますが、ここでは私が思う、親会社からの出向社員が持つべき意識について書きたいと思います。


1.自分がいつか抜けるという意識を持つこと

簡単に言うと仕組みを作るという意味です。

 

出向者は、いつか出向元に変えります。(予定です)

がむしゃらに働くことは良いのですが、そういう流れだけ残されていく側からするとたまったものではありません。

 

私は、リーダーの要素として、自分が抜けたときのことを考えて動くことができるかが重要と考えています。

仕組み・ルールを作り、人を育てることです。

管理職として当たり前のことですが、親会社からの出向者であれば一般社員でも持つべき意識です。

 

その理由は、次の考えにも通じます。


2.出向先を価値ある会社にすること

もともと価値がある会社であれば、それを「引き上げる」「つなげる」ととらえてください。

 

グループ会社・子会社として位置付けられるのであれば、それはグループ内で価値があるためです。

しかし、それが勘違いされると「安い請け合い先」としてだけ見られるようになります。

それが行き過ぎると、その出向先の企業は疲弊感がたまるだけで、趣向者に対する目線も冷ややかになるでしょう。

 

大事なのは、その企業がグループ内にとどまらず、社会的に価値があると企業に引き上げること。

その上で、さらにグループ各社との相乗効果が図れることが大事です。

 

親会社との強固な関係は強みととらえて良いのですが、親会社への依存は致命的な弱みとなるためです。

 

 

上記の視点を出向者が持つことで、出向先の企業も発展します。

そうでなければ、親会社の体系給与体系での人件費を、子会社の売上から支払うのに割が合いません。

 

そして、上記のような視点が持てない出向者であれば、親会社から行く必要はないでしょう。

親会社に戻そうという温情ある企業であれば良いのですが、「だったら転籍させよう」と考えることが普通な気がします。

 

「出向先で骨をうずめたい」という考えもあるとは思いますが、できたら前向きな理由で転籍をしたいものです。

組織変革のヒントは禅にあり

中国の仏教書であり禅宗の語録。

『碧巌録』に出てくる言葉で、「啐啄同時(そったくどうじ)」というものがあります。

 

ヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といいます。

ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」と言います。

内側からつつく「卒」と外側からつつく「啄」とによって、殻が破れて中から雛鳥が出てくることができます。

悟りを開くことができるのは、禅僧の師と弟子の呼吸がぴったり合った時だという例えで、今では「絶妙の機を逃さない」という意味で使われます。

 

本来の意図とは異なりますが、「内側と外側から同時に」というのは組織変革でも大事なアプローチだと思います。

 

組織を変えたいと思うとき、外部人員の登用・アドバイスはとても重要です。

客観的に組織をとらえてくれることや、組織にないノウハウをもたらしてくれるためです。

しかし、外部人員にばかり頼りすぎるとうまくいきません。
言うまでもなく、内部側からの反発があるためです。

新しい見識を持って改革を進めようとすることに、抵抗感を持つ人が多いことは想像しやすいことでしょう。

「うちのことを何もわかっていない」「うちは特殊だから」という言葉とともに。

 

だからと言って、内部人員だけで組織を変えようとしても、その変革は遅々としてうまく進まないでしょう。

今までの常識にとらわれすぎてしまっているためです。

 

ここで大事なのが、「内側と外側から同時に」という視点です。

「内と外の力を両方活用して」と言った方が、イメージしやすいでしょうか。

先述した通り、外部からの客観的な意見、新しいノウハウは重要です。

そして、それをうまく組織内に浸透・活用していくためには、やはり内部側の人材で良いスポークスマンになってくれる人が、絶対的に必要です。

 

改革には、内と外の両方の改革者が必要ということなのですが、内・外の境は状況により異なります。

例えば会社の場合、単に「内=社内、外=社外」というわけではありません。

社長が社員の意識を変えたいと思った時、社員からすると、社長は外の人なんですね。

そこに外部コンサルを登用しても、社長とコンサルタントは同種ととらえられます。

この状態で何かを仕掛けても、「嵐が過ぎるのを待つ」状態で終わるでしょう。

つまり、組織変革で大事なのは、変革したい組織の中で変革者を育むこと。

一気に組織全体を変えるのではなく、その組織の中でキーマンを作るということです。

 

研修でも良いかもしれません。

社外の人との定期的な接点を作ることも大事でしょう。

時には社長・上司側からの根回しのような1対1の指導が良いかもしれません。

 

まずは、変えたい組織の内部にキーマンを作ること。

そして、外と内からの両方のアプローチで変革の流れを作ること。

ただし、スピード感は大事ですが、決して焦らないこと。

まさに、「啐啄同時」が本来意味するところの「絶妙の機を逃さない」「「絶妙の機を待つ」ことが大切です。

2021年侍ジャパン 東京五輪でのスタメン予想(期待)

侍ジャパン24名が発表されました。

個人的には、ロッテの荻野が選ばれたら面白いと思ったのですが、今の日本の外野手の層の厚さでは厳しかったですね。

逆にソフトバンクの栗原。

短期決戦・大舞台への強さも魅力ですが、やはりキャッチャーの控えとしても考えられるということが大きいですね。

 

それと、オリックスの宮城。

「中川? それなら、宮城でしょ」「山崎は、、今は違うでしょ」という思い。

この中に10代が一人くらい入ってほしいという気持ちもありました。

 

そういった面で見ると、これまでの実績と言いうか、稲葉監督の個人的な期待を背負う選手が多かったと感じる今回の代表メンバー。

無難とも見えますが、中期スパンを活かして選出された侍ジャパンとも言えます。

海外組が招集できない今回ですが、それでも打線を組むとやはりワクワク感が出てきますね。

 

個人的な想いで、スタメンを考えてみました。

 

1.DH 山田哲人(ヤクルト=28)

2.中 柳田悠岐ソフトバンク=32)

3.一 浅村栄斗(楽天=30)

4.右 鈴木誠也(広島=26)

5.左 吉田正尚オリックス=27)

6.遊 坂本勇人(巨人=32)

7.三 村上宗隆(ヤクルト=21)

8.二 菊池涼介(広島=31)

9.捕 甲斐拓也(ソフトバンク=28)

 

まずは、1番には山田を。

一発もあり、盗塁技術もあり、色々な意味で揺さぶりをかけられる選手。

 

実際には、2番坂本、3番柳田になるでしょう。

ただ、個人的にはこの方が怖いかなと。

柳田はどの打順でも持ち味を出し「恐怖の2番バッター」となれるでしょうが、逆に坂本は「2番」を意識しすぎてしまう気がします。

あえて、6番あたりに置く方がのびのびできるし、下位打順のつながりもできるかなと。

さらに、左右ジグザグ打線にもなり。

 

かつての3番は走れるイメージでしたが、今はあまり関係なさそうですね。

これまで国際大会の活躍が少ない浅村なので、相手からすると情報も少なく良いかなと。

もちろん実力・信頼感は◎

 

4番はプレミア12での活躍からして、鈴木で間違いないでしょう。

今年は鈴木らしい成績とは言えませんが、稲葉監督からは全幅の信頼です。

 

5番には、一気に日本の顔と言える選手になった吉田を。

パンチ力以上に安定的な打率を残せるところが魅力です。

その安定感から、鈴木の調子によっては4番になることもある気がします。

 

次に坂本、そして7番に本塁打KINGの村上が来るという、ある意味贅沢な布陣です。

 

セカンドに山田を置き、近藤をDHでというかが絵もあるでしょうが、なんといっても菊池の守備はリズムと勢いを作れるレベルです。

プレミア12でも初戦から日本は助けられました。

今年の打撃の調子から言ってもスタメンは間違いないでしょう。

 

そしてキャッチャーは、甲斐で。

肩の強さが目立ちますが、打撃面でも、今年は欲しいところで打ってくれている勝負強さも感じます。

何よりも4年連続日本一のチームの正捕手。

ポストシーズンで見せる短期決戦での投手のコントロールも強みでしょう。

 

 

他にも、源田の守備が世界にどう映るか。

青柳のスタイルは日本の武器となるのか?

平良のストレートは海外でも通用するのか?

など、見どころたくさんあります。

 

私は東京五輪は中止派なのですが、こういうことを想像するだけでもとても楽しい気持ちになります。

こういうことを考えるだけで、プロ野球が面白く感じます。

 

コロナウイルスの影響で社会全体が老化しているように感じる昨今。

やるかやらないかわからないからこそ、想像上での楽しさが、日本の元気につながるかもしれません。

字の読めない人

「良い本を読まない人は、字の読めない人と等しい。」

 

おっしゃる通りです。ソクラテスさん。

当たり前すぎで、ぐうの音も出ません。

 

この当たり前はいろいろなところで言えます。

 

意見を言わない人は、意見がない人と等しい。

字は読めるけど、本は読めない。

意見はあるけど、言えない。

相手の気持ちはわかるけど、素直になれない。

(受験)英語はできるけど、英語は話せない。

キャッチボールは上手だけど、野球は下手。

うんちくはあるけど、使えない。

 

全て、能力はあるが、活かせないというものばかりです。

もちろん、知識は得る過程が楽しいものなのですが、逆に経験や知識はなくとも、なぜか理解できる人、実行に移せる人もいます。

そういう人は、きっとこんな人なのでしょう。

 

・常にアウトプット(知識の活用)を意識する

・マーケット感覚を持っている(何が選ばれるか、何が求められるかを考えている)

・「自分にできるか?」ではなく、「どうやったらできるか?」と自分い問うている

差別や格差は「同質性」が高いからこそ生まれる

LGBT」という言葉が一般的に知られれるようになってきました。

それによって、かつてより社会の理解度も増してきたかのように見えます。

でも実際は、認知度が増しているだけで、理解度は変わっていないのかもしれません。

 

LGBT」という言葉が知られれば知られるほど、その言葉だけが単独化し、セクシャルマイノリティの人たち一括りにしてしまっていると感じます。

 

レズ、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダー
今ではパンセクシャルという方々も。

呼び名が異なるのは、それぞれの価値観に明確な違いがあるためで、そうなると悩みもそれぞれ違ってきます。

 

以前「実際の「悩み」と非当事者の想像にはギャップがある」という記事を書きましたが、当事者の中での悩みも存在するようです。

 

例えば、バイセクシャルであることは、疎外感を感じるといいます。

異性愛者から「両方好きって理解できない」と思われるだけでなく、

同性愛者から「異性を愛せるなら“仲間”じゃない」と言われる(思われていると感じる)ことがあるそうです。

 

差別や格差は「同質性」が高いからこそ生まれる。

セルジュ・モスコヴィッシ(ルーマニア社会学者)が唱えたことを感じる状況です。

 

 

似たようなことを民族でも感じます。

朝鮮系中国人という人たちをご存じでしょうか。

朝鮮族」と呼ばれていことの方が一般的かもしれません。

日本が朝鮮半島および中国東北部を占領していた時期に、朝鮮半島から中国へ移住してきた人たちとその子孫です。

韓国語・中国語の両方への理解があり、日本語が使える祖父母の影響からか、日本に移住してくる方も多くいます。

私も知り合いがいるのですが、とても向上心の高い民族です。

朝鮮半島から中国へ移住ということで、「文化は朝鮮、国籍は中国」という状況です。

 

以前、知り合いの一人から、「なぜ日本に来たのか?」と聞きました。

すると、「中国にいるときは韓国人扱いされ、韓国に行ってみると、中国人扱いされた。それによって差別的なこともあった。思い切って日本に来てみたら、端笑めて頑張ったことが評価されたと感じた」との答えが。

 

もちろん、日本でも差別はあります。

それでも、そこには割り切れるものがあるそうです。

一方で朝鮮、中国は育った背景でもあり、同じことを感じるからこそ、違いを意識してしまう、意識されてしまうことがあるようです。

 

兄弟関係でも、近いことを感じるかもしれません。

 


性差の話も民族の話も、「同質性」が高いからこそ生まれる差別や格差があること。

そして、非当事者の人は、何となく一括りにしてしまうと、見えなくなることが生まれてくる。

そう感じます。