日記というか、ひとり言。

散歩をしていて、スポーツ見ていて、映画を見ていて、漫画を読んでいて思ったこと。

人を動かすものは、過去・現在・未来にある

人を動かすのは、

過去への「反省」。

現在の 「欲求」。

未来への「期待」。

 

逆に、人の足を止めるのは、

過去への「満足」、

現在の 「理性」、

未来への「諦め」。

 

 

「理性」は制御装置なので、やるべきでないことをやめるときには大事なもの。

ですが、全てに制御装置がかかってしまうと、新しい変化がないでしょう。

 

「欲求」と書くと、下世話にも映るかもしれませんが、「これやりたい!」「面白い!」という感情。

「欲求の赴くまま」となると危険なイメージになりますが、「欲求がない」ことも少し寂しい。

こういう状態を「枯れている」と言うのかもしれません。

 

もっと言うと、過去に満足し、欲求もなく、未来をあきらめている状態。

これが本当の「老化」と言えるのではないでしょうか。

 

コロナウイルスの影響で不安が募る中で、個人はもちろん、世の中全体の老化現象が見られる気がします。

「人の気持ちが理解できると思わない方が良い」と君は言った。

LGBTQ+の人々が最も悩みについてP&Gジャパンが調査しました。

この調査で興味深いのは、当事者悩みだけでなく、非当事者が想像している困りごとについても比較していることで、わかることは、実際の悩みと非当事者の想像にはギャップがあるということです。

 

f:id:naotohayashi:20210601150417j:plain

 

 

実際の悩みと非当事者の想像にはギャップがあるというのは当たり前のことですが、この表を見ると、非当事者が想像するのは表層的なものであり、当事者の悩みは深層的なものであることを感じます。

表層的と書くのは少し軽薄かもしれませんが、要するに「目に見える」ことだけを困りごととして考えてしまっているとうことです。

数値的なものはわかりませんが、この表を見たときに「理解の層が違うんだな」と感じた。

 


当事者でないと内面的なものはわからない。

これは仕方のないことで、想像による当事者意識には限界があります。

大事なことは、「当事者にならないとわからないことの方が多い」ということを認識する、自戒することです。

わかったつもりにならないこと。

簡単にわかると思わないこと。

 

店舗教育では「お客様意識を持って」ということをよく聞きますが、これがなかなか本人に理解されません。

口でどれだけ指導しようと、本人はお客様のことをわかったつもりになっているからです。

 

経験を積むことで高まるようにも感じる周囲への理解ですが、一方で経験によって理解が薄れることもあります。

店舗責任者だった人が、出世して本部に配置されるようになり、店舗目線での当事者意識が薄れてしまうこと。
ベテラン社員が、若手の悩みや混乱に気づけなくなってしまうことなど。

自分も通った道のはずなのに。

 


P&Gジャパンでは、これまでの取り組みや今回の調査を元に、職場でLGBTQの「アライ(理解者・支援者)」の輪を広げる「アライ育成研修」を開発するそうです。

「異なる考え方を理解しよう」というご指導だけでは「アライ(理解者・支援者)」は生まれないと感じたのでしょう。

 

「周囲の気持ちを理解することが大事だよ」という正論よりも、「周囲の気持ちを理解できると思わない方が良い」という皮肉の方が有用かもしれません。

「理解できる」と思っているから慢心や押しつけが生まれるのだから。

就職活動の自己分析で心得ておくこと

就職活動初期。

「自己分析が苦手」と言う人がいるが、そもそも得意な人なんていない。

もっと言うと、自己分析を拠り所にする必要はないと思う。

 

自己分析は“思い込み”

なんらかの自己分析ツールを受けるとする。

その質問に答える過程で、「自分はこうありたい」というイメージに寄せて答えていることが多い。

もしくは、「あなたって、こういう人だよね」という他人のイメージに。

 

つまり、「分析の結果、答えがわかる」というよりも「求める答えに向けて、分析している」という形なのだ。

嫌な言い方をすると、ああいう自己分析ツールは、“思い込み”を明文化するものだ。

 

もちろん、言語化が苦手な人にとって、思い込みを明文化してくれることには意味があるし、さらに、それに合わせて業界まで教えてくれる。

つまり自己分析ツールの価値は、

①企業に自分をアピールする材料を言葉にしてくれる

②志望理由を伝える材料を言葉にしてくれる

③何も知らない業界への視野を広げてくる

ことにあるのだろう。

 

また、急に社会から試されるかのような就職活動のタイミングで、「君ってこういう人だよ」と教えてくれる(=認めてくれる)ことが、安心感にもなっているだろう。

 

入社すると「向いている」「向いていない」の繰り返し

だが、ここでの自己分析結果は、あくまでもこれは“思い込み”だという認識はしておいて損はない。

 

就職活動を終え、1年弱が経つといよいよ社会人の一員となる。

意気揚々と入社を迎えるわけだが、数日で「自分、この仕事に向いていないかも」と思う人がほとんどのはずだ。

あの時の自己分析など砂のように吹き飛ぶ。

むしろ、「働くことが向いていないかも」と思う人だって少なくないだろう。

 

でも、それが普通と思っていい。

なぜなら、自分の仕事に「向いている」「向いていない」と考えることは、その先も続く。

30代になっても定期的あるだろう。

転職に思い立つまでいかなくても、日常の中で毎年考えることだろう。

周りより評価が良いと「向いている」と思い、仕事に失敗したら「向いていない」と思う。

 

天職と思える仕事に出会えた人は幸せと言うが、それもポジティブさからくる“思い込み”だ。

そういう人は、どんな仕事でも天職と思いながら仕事をしているのではないか。

 

また、ある部署で成果を上げているときに、異動などの辞令があったとき。

「なんで、自分が。。。上は何もわかっていない」と思うかもしれない。

でも、上の人からすると、その人に対して「別の分野でも成果を出せる」と思っているか、「他の人でも大差ない」と考えている。

本人の「向いている」「向いていない」は“思い込み”だから。

 


環境によって変わる、自己分析

なぜ、自己分析が“思い込み”かと言うと、そこに絶対的な比較基準がないからだ。

そして、だからこそ、この“思い込み”は環境によって変化する。

 

スポーツ選手は良い例だろう。

例えば野球の場合、小・中学校でエースで四番だった人が、強豪校に入ると途端についていけないことがある。

さらにその強豪校の中でも選りすぐりの選手だけがプロに進むのだが、ここでもレベルの違いが出てくる。

「才能がある」と思っていた人の多くがその過程で挫折していき、周りに比べて「才能がない」と自覚した人が努力を重ねて名選手となる。

 

比較基準が変わると、自己分析も変わってくる。

これは当然のことだが、就職活動中にはあまり気づけないことだろう。

 


「才能がない」と自覚した名選手と同じことだが、今やっていることに対して、もしくはやろうとしていることに対して、「向いている」「向いていない」と思った時。

自分がどういう行動をとるか、そこが一番重要になる。

コロナによって見えなくなった実態

コロナによって見えなくなった実態

「今はコロナだからしょうがない」

各業界でこの言葉がいつまで通用するのだろうか?

もしかしたら、この言葉を“言い訳”にしてしまっている部分もあるのではないか?

 

例えば、百貨店。

3密の回避による集客減に加え、緊急事態宣言地域では営業範囲が制限されている。

これでは業績が悪化するのも無理はない。

稼ぎどころが極端に減ってしまっているのだから。

 

しかし、ここで「今はコロナだからしょうがない」という思いで止まってしまっている部分はないだろうか?

“言い訳”という認識はなくても。

 

そもそもはコロナの影響を受ける前から、百貨店の集客が下がっている。

ほとんどの百貨店の経営状況は良いとは言えず、郊外を中心に閉館が続いている。

 

コロナウイルスの影響が強すぎるあまり、「コロナがなくても、このままではヤバい」という危機感が薄れてしまっているように感じる。

つまり、コロナウイルスによって外部・内部環境の実態が見えなくなっているのだ。

今、考えるべきことは、「コロナウイルスの影響がなくなったら、本当に業績は回復するのか?」ということ。

 

もちろん百貨店各社は、「今の状況が早くは終わらない」「時代は変わった」ということを認識し、今できることはやっているのだろう。

ECサイトの充実やフードデリバリーサービスとの連携を図るなど。

しかし、それらのことはコロナウイルス云々関係なく着手すべきことで、単に他業界に比べ出遅れていただけのことだ。

消費者からすると当然のようにあると嬉しいことなのだが、全く持って差別化にもならなければ、百貨店の強みを伸ばすものでもない。

それができて、やっと普通になるという、いわば“現代の初期装備”だ。

 

コロナのことは考える必要はあるが、それとは別に未来の生活様式、顧客価値を予測した上で、新しいことを始めていかないといけない。


コロナの影響が強いと言われる業界こそ

もちろんこのことは、百貨店業界以外にも当てはまる。

例えば、水商売。

夜の外出や酒類の提供禁止の影響を強く受けるものだが、こちらも「コロナのせいで」などと地団駄を踏むだけでは、赤信号だろう。

 

男女関係を円滑する競合ビジネスの種類が広がっているからだ。

今や、ネットアプリでの出会いは、昭和のお見合いと同じくらい一般的なものになっている。

さらに「パパ活アプリ」なども出始めており、課金はあるものの、水商売以上に疑似恋愛を楽しむことができる。(疑似では終わらないことも)


それから3密の危険性の高いパチンコ業界。

一定の政府からの支援はあるのかもしれないが、スロットなどはネットで十分楽しめるし、それに代わるギャンブルもある。

FXなどは、スピード感も似ていて、パチンコ・スロットから遊ぶものを切り替えた人も多いのではないだろうか。

 

いずれにせよ、これらの業界は、一定期間通常が営業ができないことで、客足が大幅に減った。

通わなくなった顧客の中には、「別になくても変わらないな」という思いも芽生え、根本的な顧客ロスとなっているに違いないだろう。


もちろんこれは、業界ごとに丸っと一括りにできるものではない。

外食業界は苦境に立たされているが、最近話題の一人焼肉チェーンなどは大きく伸びている。

「コロナのウイルスを想定して」と言うより、接客リスクの低減や顧客ニーズを捉えての新業態が、うまくコロナショックにはまったという状況だ。

 

個人レベルでもコロナが隠れ蓑に

すでに感じている人もいるだろうが、一つの組織内でもそのような淘汰の予兆が見られる。

明石市ではコロナウイルス対策として、保健所の人員体制を4倍に増やすという。

人員補充は、明石市役所2000人の職員を活用するということだ。

もちろん、緊急事態化だからこそできる異動措置ではあるが、中には意味のない仕事をしている人もいると感じてだろう。

 

民間企業でも「コロナだから」ということで緊急の人員配置は行われている。

また、「コロナだから」ということで業務量が減っている人もいることだろう。

 

しかし、「コロナだから」の言い訳がなくなったとき、自分の仕事はあるのだろうか?

同じ仕事を任せてもらえるのだろうか?

そういった危機感を常に持ち、今の仕事の進め方や自分の能力を見直すことが求められている。

 

f:id:naotohayashi:20210523103755j:plain

 

五輪開催の議論が平行線をたどるワケ

オリンピックを開催すべきか、否か?

この議論が前に進まない気持ち悪さは、開催派がメリットをはっきりと言わないことにある。


5月14日の記者会見で、菅首相は「オリンピック開催のメリットは何か」という質問に対して、

「オリンピック・パラリンピックは、世界最大の平和の祭典であり、国民の皆さんに勇気と希望を与えるものであるというふうに認識している。」

と答えている。

 

「ザ・建て前」というコメントで、中止派はもちろん納得しないだろう。

そして、開催派でさえも「後押しされた」とも感じないだろう。

 

本当のメリットは経済的損失の回避(⇒責任問題の回避)、既得権的の確保だ。

もちろん、みんな“大人”だからそれを面と向かっては言わない。

でも、もうわかっていることなのだ。

だったら、もう振り切って話すこともありなのではないか?

「経済的に重要なイベントです」と。

そして、それが社会的にどれだけ還元できるのかを伝えて欲しい。

「オリンピックが日本で行われると、これだけの経済価値があり、関係ビジネスの人が潤います。

「さらに、実は日本・東京都への収入がこれだけ増えるので、医療費の大幅な補償ができるようになります。」

「コロナウィルス患者が30%増える可能性はあるが、その対応も賄える」

くらいのことを。

 

言えないくらいのことしかないのなら、即刻中止で良い。

 

経済が回れば、医療・生存が保障されるわけではないが、今は確実に経済と医療・生存の二律背反で決断ができないでいる。

それは、緊急事態宣言も同じだ。

そこをしっかり伝えることで、初めて前に進む議論ができる。

 

 

しかし一方で、、、

こういった話が表立って言えない理由も十分に理解できる。

たとえ伝えたとしても、理解してもらえないことが想像できるからだ。

 

冒頭で「この議論が前に進まない気持ち悪さ」と書いたが、その根源は判断基準の違いにある。

中止派は判断基準が「善悪」であるのに対し、開催派が「損得」を基準にしているからだ。

 

判断基準が「善悪」か「損得」か。

合理的か、倫理的か。

 これは、もう考え方の違いなので、開催派の人に倫理の話をしても理解はしても、納得はしないだろう。

もちろん、逆もしかりだ。

 

以前何かで読んだことだが、同じ文系脳の人たち中でも正しさの判断基準が異なるという。

哲学部:人としてあるべき姿か

法学部:法律に反していないか

経済学部 :効率的か

 

これについては、妙に納得してしまった。

こちらが正しさを力説しても、判断基準に違う相手には「何言っているのかわからない」状態になってしまう。

判断基準が異なることに気づいていないからだ。

まずは、その判断基準の交通整理が重要になる。

 

 

f:id:naotohayashi:20210516061613j:plain

 

学習の価値

学習は何のために行うのだろうか?

なぜ、学習は必要なのだろうか?

 

学習の意味は広いですが、本や学校で学ぶことも、テレビで知ることも、実践から学ぶことなど全て。

その目的はは? 意味は? 価値は?

 

知識を学ぶため、確認するため。

能力を広げるため、精度を上げるため。

そのために学んでいる。

その先に何かやりたいことがあるため、その知識や能力が必要だからです。

 

また、学校のように、現前の必要性は感じないが、先人の経験から「これは学んでおくべき」ということで学んでいることもあります。

 

もちろん、それはその通りであり、だからこそ学習は価値があることだと思う。

ただ、学習にはこれ以上の価値があるのではないかと思います。

 

学習の真の価値とは何か?

それは、変化への抵抗感を減らすこと。

 

 

私がこう思うきっかけとなったのは、全く学習をしてこなかった40代の人と接していて。

非常に上から目線になりますが、「これはヤバいな」と感じました。

 

もちろん、学校では学んだ経験はある。

入社したての時に、先輩から教わったこともある。

でも、その後20年以上学ぶことを一時停止すると、「改善」「新しい方法」というものを受け付けなくなってしまう。

つまり、変化に対して抵抗感を持ってしまっていました。

 

やり方がわからないだけならまだ良い、調べれば良いことだから。

自分で考えられないだけならまだ良い、考え方を学ぶ環境があるから。

理解時に感がかかるだけならまだ良い、何度でも教われば良いのだから。

 

問題はそこではなく、「改善した方が良いんだろうな」とは思いつつも、頭が無意識に変化に抵抗してしまう。

そして、体が変化のための行動を拒んでしまう。

というより、動けない。

 

骨折して、長い間ギブスをし続けていると、ギブスを外した後にその部位が動かなくなってしまう。

長らく動かさなかったために、筋肉、腱などが固くなってしまっているためです。

脳も同じ現象が起きる。

長らく変化することがないと、変化に対する動きができなくなってしまう。

 

そして、そこに対して「このままでは良くない」という考えすら微塵もない。

「頑固」とも言えますが、これの怖いところは本人が気づいていないこと。

先述の「これはヤバいな」と感じたのは、自分自身に対してもです。

 

 

余談ですが、変化や新しい刺激があると、脳の中でも前頭葉野が活性化されます。

この前頭葉野では、記憶と情報の組み合わせによって、新しいものの創造・想像を行っていますが、それ以外にも働きがあります。

集中力を高めたり、計画性を高めたり、コミュニケーションの交通整理を行ったり、感情のコントロールを行ったり。

つまり、変化や新しい刺激がないと、前頭葉野が活性化されない。

そうすると、普通の生活にも支障をきたす可能性があるようです。

 


本を読むのでも、経験から学ぶのでも良いです。

それらの学習とは、単に知識・能力向上を行うのではなく、変化すること、新しい刺激を受け入れること。

そして、変化への抵抗感を減らすことが真の価値なのではないでしょうか。

誤解を恐れずに言えば、変化する世の中で、やっと普通の生活ができると。

 

人間には自然と「安定」を求めてしまう心理傾向があるので、変化への抵抗感をなくすことはできません。

知らないうちに居心地の良い環境・やり方に固執してしまうこともあります。

 

だからこそ、学習の機会が必要なのだと。

何でも新鮮に感じた子供の頃はまだ良いでしょう。

見知ったことが多いと錯覚する大人こそ、学習の機会を意図的に作り出すことが、重要と言えます。

 


以前、ある講演者の人に、私が付き人みたいに付いて回っていたことがありました。

その人は毎回、講演用の説明スライドを変えていましたた。

本当に少しだけ、見せ方を変えるだけなのですが。

その理由を聞くと一言。

「同じ仕事はしない」と。

学校の先生、研修の講師など学習の機会を作る立場こそ、学習(=変化)が必要と学びました。

「評価されてない」と思った時こそ論語を

「人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり。」

(不患人之不己知、患己不知人也)

 

「誰も私のことを評価してくれない」と悩んでいるけど、

逆に、自分が周りを認めていないことが問題でしょ。

 

というニュアンスの、孔子の『論語(学而)』の言葉ですが、私のヒーリングメッセージになっています。

これを思い出すと、冷静になれると言うか。

 

5月、新しい職場やクラスにも慣れてきた頃。

「なんで自分より、あの人の方が評価されてるんだ!」「俺とあいつはそんなに変わらないのに、なんであいつだけ…」

という気持ちも芽生えるころかもしれません。

 

そういう気持ち自体は否定しなくて良いと思うんですね。

周りに認められたいという思いは、人として自然な感情だと思います。

しかし、そういうときこそこの言葉を思い出せると、良いかもしれません。

「人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり。」

 

これ、結構あると思うんです。

「誰も私のことを評価してくれない」と思ったとき、自分自身が周りの人を認めていないことが。

 

もしあなたが、周りから評価されている人を、「自分よりできない」と思ったとしたら。

まず、それに納得がいかないとしたら、それはあなたと周りとの評価基準がズレているのです。

 

相手が「自分よりできない」と思った時、その人はきっと、あなたと違う能力を活かしているはずです。

その能力が、どの環境、どの人間関係でも評価されるとは限らないが、少なくとも今の環境では評価されるもので、あなた自身はその能力をアピールできていない。

そして、あなたは今時点では、その能力が重要だと気づけていない。

これが、評価基準のズレです。

 

評価基準のズレを修正していくには、下記のようなことを意識するのが大事です。

●自分の持っているものを基準に考えるのではなく、今の周りの環境には何が求められるかを考える。

●自分と周囲との「差」ではなく「違い」に気づき、それを尊重する。

●人の所属する環境が1つではないこと理解する。
(会社では、飲み会で活躍する人、他部署からすると重宝される人、うちに帰ったら良いお父さんっていう人も大事なんです)

●評価基準は1対1の関係の中でも存在する(相手との関係性によって、基準が変わる)ことを理不尽と思わない。

●自分の能力を発揮していること、能力が活きていることは全くに別物。

 

ズレの修正は骨盤矯正のようなものです。

筋肉から変えていく場合もあれば、スッと一瞬で修正される場合もあります。

でも、意識していないと、またズレてきます。

 

ただ、「誰も私のことを評価してくれない」「なんで自分よりあの人の方が評価されてるんだ」と感じる人は、結構冷静な人だと思います。

こういう人は、評価基準のズレを自分の中で解決できると思います。
周囲の評価を誤解して、良いように捉えてしまう方がまずいです。

 

そして、もっと大事なことは、相手との比較の話ではありません。

もしあなたが、周りから評価されている人を、「自分よりできない」と思ったとしたら、、、

それはあなたが自分と比較している相手だけでなく、評価している周囲を認めていないっていうことなんですね。

 

そういう、感情というのは周囲に何となく伝わります。

何となく伝わったものが、そのまま周りからあなたに対する何となくの印象になります。

他の人ができるとかではなく、自分で自分の評判を下げることをしてしまっているのです。

 

これが、自分自身が周りの人を認めないこと、そしてそれに気づけないことの問題です。

そして、これが「不患人之不己知、患己不知人也」と言った孔子の真意ではないかと私は思います。
また、弟子に伝えながら、孔子が自分自身に言い聞かせていたことなのではないかと。

「誰も私のことを仕官させてくれないけど、実は私が世の中のことをわかってないのかな?」


こういうのを「返報性」と言うのですが、よくあることです。

「あの人とは仕事しにくいな」と思ったら、相手も同じことを思っていた。

「自分があの人に合わせてあげてる」と思ってたら、相手もお同じことを。

「あの人をフォローしている」と思っていたら、相手も同じことを。

上下関係、恋愛関係、親子関係、友人関係、ご近所付き合いなど、至る所であります。

 

だから、相手との関係性を変えたいと思ったら、謙虚になること。

「自分やってやってるぜ!」と思った時ほど、謙虚になること。

それが大事。

 

f:id:naotohayashi:20210512144105j:plain