オリンピックを開催すべきか、否か?
この議論が前に進まない気持ち悪さは、開催派がメリットをはっきりと言わないことにある。
5月14日の記者会見で、菅首相は「オリンピック開催のメリットは何か」という質問に対して、
「オリンピック・パラリンピックは、世界最大の平和の祭典であり、国民の皆さんに勇気と希望を与えるものであるというふうに認識している。」
と答えている。
「ザ・建て前」というコメントで、中止派はもちろん納得しないだろう。
そして、開催派でさえも「後押しされた」とも感じないだろう。
本当のメリットは経済的損失の回避(⇒責任問題の回避)、既得権的の確保だ。
もちろん、みんな“大人”だからそれを面と向かっては言わない。
でも、もうわかっていることなのだ。
だったら、もう振り切って話すこともありなのではないか?
「経済的に重要なイベントです」と。
そして、それが社会的にどれだけ還元できるのかを伝えて欲しい。
「オリンピックが日本で行われると、これだけの経済価値があり、関係ビジネスの人が潤います。
「さらに、実は日本・東京都への収入がこれだけ増えるので、医療費の大幅な補償ができるようになります。」
「コロナウィルス患者が30%増える可能性はあるが、その対応も賄える」
くらいのことを。
言えないくらいのことしかないのなら、即刻中止で良い。
経済が回れば、医療・生存が保障されるわけではないが、今は確実に経済と医療・生存の二律背反で決断ができないでいる。
それは、緊急事態宣言も同じだ。
そこをしっかり伝えることで、初めて前に進む議論ができる。
しかし一方で、、、
こういった話が表立って言えない理由も十分に理解できる。
たとえ伝えたとしても、理解してもらえないことが想像できるからだ。
冒頭で「この議論が前に進まない気持ち悪さ」と書いたが、その根源は判断基準の違いにある。
中止派は判断基準が「善悪」であるのに対し、開催派が「損得」を基準にしているからだ。
判断基準が「善悪」か「損得」か。
合理的か、倫理的か。
これは、もう考え方の違いなので、開催派の人に倫理の話をしても理解はしても、納得はしないだろう。
もちろん、逆もしかりだ。
以前何かで読んだことだが、同じ文系脳の人たち中でも正しさの判断基準が異なるという。
哲学部:人としてあるべき姿か
法学部:法律に反していないか
経済学部 :効率的か
これについては、妙に納得してしまった。
こちらが正しさを力説しても、判断基準に違う相手には「何言っているのかわからない」状態になってしまう。
判断基準が異なることに気づいていないからだ。
まずは、その判断基準の交通整理が重要になる。