経営方針の違いによる会長・社長の対立が注目されていた大塚家具。
3月27日の株主総会で一旦着地点を迎えました。
経営権争いとして、メディアを賑わせていたこの話題ですが、ここまで大きく扱われたのは下記のような要素があったからだと勝手に捉えています。
・大塚家具という大手で、消費者もよく知る企業だったこと
・会長・社長が親子であったため、お家騒動として発信できたこと
(会長は社長のことを子供として扱った発言が多かった)
・長引いていたこと、発言に感情的な部分があり、泥沼化していると見えたこと
・両者の主張の対立構図がわかりやすかったこと
・委任状争奪戦という外も巻き込む事体にまで広がったこと
・社長が経営を語る女性であったこと
(失礼かもしれませんが、これって結構大きい気がします)
言ってしまえば、メディアとしては“おいしい材料”がたくさんあったわけですね。
しかし、この「骨肉の争い」と言い表された今回の騒動。
冷静に考えると、経営層としては非常に健全な状態だったのではないでしょうか。
健全な?
経営層にいる複数名が、自分の信念や会社の方向性を主張し合うのは、一部の経営者の独断や利害による暴走を防ぐために必要な企業統治です。
そう、今回のような意見の対立は、経営者として、健全な会社のあり方として、あって当たり前のことなのです。
逆に、本件がこれまで注目されたのは、先述の理由の他に、この主張し合うという行為が珍しかったからではないでしょうか。
そして、ここに日本の企業経営における課題があります。
“和を以て貴しとなす”日本では、一体感が美化されます。
しかし、その問題点は議論、意見の衝突がなくなってしまうこと。
結果として、1つの視点からしか考えずに、結論が出てしまいます。
議論することが目的ではありませんが、一見正しいと思われる方針も別の視点から見ると、懸念点が浮かび上がります。
その別の視点から論じることが議論です。
もちろんリスクのない経営など存在しないわけですから、誰もが納得する意思決定を下すのは難しいことです。
しかし、それでもその議論を経ることで、方針は確固としたものになり、実行段階でブレない経営に臨むことができます。
方針が変わる、変わらないに関わらず、複数の視点から論ずることは必要なことなのです。
しかし、トップがオーナー社長やカリスマ社長であると、どうしても周囲がイエスマンばかりになってしまいます。
もちろん、様々な経験と意思決定の末にトップの立場にいる人というのは、自分と違う意見を拒否しがちです。
時には、「何を馬鹿なこと言っているんだ」「いいから黙ってやれ」「俺の会社だから俺が決める」と意見すら言えない雰囲気をつくってしまうことも。
また、意見を聞いているようで、同意以外を求めていない社長もいます。
しかし、だからといって違和感に目をつぶり、異論を自分の中で抑え込んでしまうようなら、経営層として失格と言えるでしょう。
そのような姿勢が「社長以外の役員の存在感が薄くなっている」と社員から思われ、経営層全体の求心力を下げてしまっている企業も珍しくありません。
もちろん「日頃から意見のすり合わせを行っているから意見の対立は少ない」という企業もあるでしょう。
しかし本当にすり合わせになっているでしょうか。
知らず知らずのうちに、すり合わせが歩み寄りになり、馴れ合いになってしまってはいないでしょうか。
当事者として中にいると、こういったことがわからなくなってしまいます。
だからこそ、昨今、社外取締役の必要性が注目されているのでしょう。
新しい期を迎えるこの時期。
経営者としてのあり方を改めて考えるには、最適なタイミングかもしれません。
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さて、大塚家具の件に関して、もう少し。
とは言え、ここまでの騒動になってしまったのは、株主にとっても、社員にとっても歓迎されることではありません。
しかし一方でこの騒動によって、大塚家具という存在を世の中に再認知させたことは、紛れもない事実でしょう。
ただ単に名を広めるだけでなく、商品・販売戦略の転換と新コンセプト、そして新社長の存在感を、顧客層と投資家にアピールしたことができました。
家族内の対立が見られたからこそ、同族経営を払拭する機会にもなったはずです。
経営者の顔がはっきり見える企業が利益を上げている、株価が上がっていると言われている時代です。
もし、今回の騒動の中で、そのような広報戦略の意図があったとしたら、会長、社長ともに相当の経営センスとしたたかさ。
そして、井筒和幸監督もびっくりの演技力を持っていると言わざるを得ません。