高校生のとき、よくわからない授業がありました。
毎回小津安二郎の映画を見て、感想文を書くというもの。
「東京物語」「晩春」「秋日和」「お早よう」「秋刀魚の味」などなど。
名作と言われた作品ばかりですが、起伏が少ない小津作品は退屈で、「意味があるのか」がよくわからない授業でした。
総合学習の選択授業のうちの一つだったので、「楽だな」としか思わなかった当時。
「この授業は何の意味があるのか」も自問もせず、担当の梅原先生も特に授業の目的は語りませんでした。
(東京物語 1953年)
今になって思うこと。
「意味がない」と思えるものだからこそ、今に活きるということ。
小津安二郎の描いていた、家族やコミュニティーの重要性と希薄さなどは、高校生にはあまり考える機会のないテーマです。
しかし、だからこそ、必要だったのでしょう。
意味があると思うものだけを学ぶようだと、つまらない人間になってしまいます。
学生であれば、受験のための勉強だったり、就活のための準備だったり。
興味のあることだけを学ぶこともそうかもしれません。
(特に高校生の考える「意味のあること」は非常に限定的なものでしょう)
目の前のことだけにとらわれると、どんどん自分の世界は狭くなります。
「自分の世界」が広くなければ、思考の幅も狭くなってしまいます。
バランスをとる必要はありません。
一つのことを突き詰めることも重要です。
しかし、一面的な思考プロセスでは、問題にぶつかったときに、解決する手段も一面的なものしか思いつきません。
そして、思考の幅が狭くなるということは、会話の幅も狭くなるということです。
結果として、話題の通じやすい人としか接しなくなり、自分に世界は一層限定的なものになります。
人間が変わる方法は3つしかない。
1番目は時間配分を変える。
2番目は住む場所を変える。
3番目はつきあう人を変える。
と言っています。
これができない人はまさに思考の幅が狭くなっている人でしょう。
実際は、今のライフスタイルの居心地がいいというのが理由かもしれません。
(もしくは変えることを求めていない人でしょう。)
一見、意味のないと思うこと。
その中に、自分自身を進化させる機会、人生を楽しむチャンスが隠れています。