「教えているのに、なんでできないんだ?」
こんな発言は、教えることに対してものすごく一方的な印象を覚えます。
「教える」の語源は教える人の心に由来するといいます。
「教える」の「オシエ」は愛惜しむの「ヲシ(愛惜)」に接尾辞の「へ」がついたものであり、愛惜しむ心を持ち続けることがもともとの意味です。
「教える」=「愛惜しむ」として考えると、そこには上下関係は存在しません。
教えられる側が教えを請い、教える側が仕方なく行う。
そういうものではなかったのでしょう。
私塾・寺子屋など、過去から学びの場はありました。
もちろん、そこには自ら学びたい(教わりたい)という意欲が高い人が集まっていたことでしょう。
その一方で、教える側も義務感で教えていたわけでは決してないと思います。
そこには、学ぶ人への愛があったのではないでしょうか。
それが家族であれ、部活であれ、そして企業であれ変わらないものだと私は思います。
教えるという行為には、愛が必要であると。
教える人に愛があれば、相手のことを理解しようとし、本人の成長を心から喜び、その成長を決して諦めることはありません。
特に、諦めていないか?
企業教育の現場で問う必要があることだと思います。