先日、『最後の忠臣蔵』という映画をDVDで観ました。
2年前の作品を今更ながら初めて見たのですが、好きな内容・展開でした。
忠臣蔵といえば、「赤穂浪士が“忠義をつくし、自害する」という美談ですが、その中に生き残りが2名いた、といういわば忠臣蔵の続編というシナリオです。
迫力ある雪の中での殺陣のシーンが、『忠臣蔵』の1つの見どころです。
ところが、この『最後の忠臣蔵』では殺陣のシーンはごくわずか。
刀同士がぶつかり合うのは2,3回といったところでしょうか。
だから、かもしれない。
数々の『忠臣蔵』よりも、この『最後の忠臣蔵』を見たときの方が、“忠義”という言葉を強く感じました。
仕える殿様や家老の指令が第一であり、自分の命はそのためにある。
今で言う上司である大石内蔵助のために生き、大石内蔵助のために死ぬ。
若干、大袈裟かもしれないですが、そう感じるには十分内容でした。
「上司を男にしたい」
そんなセリフを聞くことがなくなった。
これはドラマの中だけのセリフだったのだろうか。
自分の記憶ではなく、人生の先輩たちから聞いた話にはなるが、「上司を男にする」と思いながら働いていた時代がありました。
部下の成長をわが子の成長のように喜び、上司の手柄を部下が心から喜んだ時代が。
そしてそんな関係が、コンプライアンスという言葉がなくても秩序を守り、成果主義がなくても一心不乱に頑張る姿勢を生み出していたんじゃないかと思います。
時代は変わる。
社会は変わる。
人は変わる。
組織は変わる。
文化は変わる。
制度は変わる。
進化という言葉のもとに、色々なものが変わってきました。
それでも、「上司を男にしよう」という思いがあふれる組織は、どの時代でもあって良いものです。
誰かに貢献したいという気持ちは大きなエネルギーを生みます。
上司が慕われている職場は、大きなミスも少ない。認められたい。
役に立ちたいという気持ちが生まれるからだです。
そんな関係だからこそ、認められるとうれしいし、叱られれば真摯に受け止めます。
成果主義の導入や、情報化社会による徒弟関係の歪化もあるかもしれないですが、何より変わったのは上司側の姿勢ではないかと思います。
上司の役割の根底は、「この人に、ついて行きたい」と思われるかどうかにあります。
「部下の人生にまるごと責任持つ。」
そう思える上司。
そんな上司を作れる組織、文化。
それこそが、日本再興の鍵になるのだと思います。
大石内蔵助は生前のみならず、自分の死後も家臣の生活、その家族の安全を案じ、色々な根回しをしていました。
そんな人物だからこそ、部下が忠義を尽くしたのでしょう。